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短編 奇妙な話・不思議な話・怪異譚 n+2026

川の持ち主が戻る日 nc+

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インドネシア人の友達、Sから聞いた話だ。

彼の実家の近くには、大きな川が流れている。
地図で見ればそれなりの規模だが、実際に近づくと拍子抜けするほど穏やかで、
岸のあたりは浅く、流れも緩やかだという。

子どもたちは、毎日のように川で遊ぶ。
泳いだり、潜ったり、魚を追いかけたり。
大人もそれを止めない。
危険な川ではないし、何より、そこで遊ぶのが一番楽しいからだ。

Sも、子どもの頃は毎日のように川に入っていたそうだ。
暑い国だから、川は生活の一部だった。

ただし、その川には、
たった一つだけ、絶対の決まりがあった。

「入ってはいけない日」がある。

それは、前もって決まっている日ではない。
満月でも、新月でもない。
雨季とも乾季とも関係がない。

ある日、突然やってくる。

朝起きて、川を見ると、
「今日はだめだ」と分かるのだという。

理由は、見れば分かるからだ。

川の様子が、明らかに違う。

水は濁っていない。
増水しているわけでもない。
流れが速いわけでもない。

それなのに、
川の中に、大きな黒いものが見える。

はっきりした形はない。
魚でもない。
影とも違う。

まるで、川そのものの中を、
巨大な生き物がゆっくり泳いでいるように見えるのだという。

Sは、それを子どもの頃、何度か見たことがあるらしい。

川の真ん中あたり。
水面の下を、黒い塊が動く。
水が盛り上がるわけでも、波が立つわけでもない。
ただ、「そこにいる」と分かる。

その日は、大人たちが必ず言う。

「今日は川に入るな」

理由は説明されない。
叱られることもない。
ただ、淡々と、当たり前のことのように言われる。

子どもたちも、逆らわない。
なぜなら、見てしまっているからだ。

あの黒いものを。

Sが言うには、
地元では昔から、こう言い伝えられているらしい。

――あれは、川の本来の持ち主だ。

人間が来るよりずっと前から、
あの川にいた存在。

普段は、人と干渉しない。
住む世界が違うからだ。

人は人の世界で暮らし、
あれは、あれの世界で川を使う。

だから、普段は問題ない。

だが、ごく稀に、
世界の境目が薄くなる日がある。

その日だけ、
川は二つの世界をつなぐ。

その日に川に入った人間は、
こちら側に戻ってこられない。

「行方不明になる」と言われるが、
正確には、消えるのではない。

連れていかれる。

Sの村では、
昔、実際にそういうことがあったという。

詳しい話は、あまり語られない。
名前も出ない。
いつの話かも、はっきりしない。

ただ、「あの日、川に入った」とだけ伝えられている。

それ以来、
誰もその決まりを破らない。

Sは、日本に来てから、
ふとこの話を思い出すことがあるそうだ。

日本の川は、
入ってはいけない理由が、
すべて「危険だから」「ルールだから」と説明される。

でも、Sの故郷では違った。

理由は、
そこに人間の世界ではないものがいるから。

怖がらせるためでも、
信仰のためでもない。

共存のためだ。

「人が川を使う日」
「川の持ち主が川を使う日」

それを、分けているだけ。

Sは、こう言っていた。

「もし、日本にもそういう場所があるなら、
たぶん、もう誰も気づいていないだけだと思う」

川に限らず、
森でも、山でも、
街の中でも。

見えなくなっただけで、
いなくなったわけじゃない。

たまたま、
入ってはいけない日に、
そこへ足を踏み入れた人が、
事故や行方不明として処理されているだけかもしれない。

そう言われてから、
私は川を見る目が少し変わった。

水位や流れではなく、
「今日は、こちら側の場所かどうか」を考えるようになった。

もちろん、答えは分からない。

だが、もし川の中に、
理由のない違和感を覚えたら。

黒いものが見えた気がしたら。

その日は、
近づかないほうがいい。

それは、怖いからではない。

順番が違う日だからだ。

人には、人の使う日がある。
そして、
人ではないものにも、
使う日がある。

それだけの話なのだ。

(了)

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