今でもあの夜のサイレンの音を思い出すと、胸の奥がじんと熱くなるような、冷たくなるような変な感覚になる。
数年前のちょうど今くらいの時期、盆の少し前だったと思う。湿気を含んだ空気がまとわりつく中、私は久しぶりに実家に帰っていた。山に囲まれた小さな町で、夜になると街灯がまばらに点いて、その下だけ円を描くみたいに白く浮かび上がる。虫の声だけが賑やかで、あとは冷蔵庫の音と、遠くの国道を走る車のゴウッという残響が、家の壁を伝ってかすかに届いていた。
その夜、私は居間のソファに寝転んで、薄いタオルケットをお腹にだけ掛けていた。クーラーは嫌いだと言う母に合わせて、窓を少しだけ開けている。網戸越しに、濡れた土と草の青臭い匂いが入り込んできて、畳の乾いた匂いと混じる。そのせいか、妙に頭が冴えて、寝付けないでいた。
テレビは消してあって、暗い液晶画面にぼんやりと自分の顔が映っている。スマホの画面だけが小さな光源で、指先の汗がガラス面にぺたりと張り付く感じが妙に気になった。時間を見ると、もう日付が変わってかなり経っている。町の人たちが寝静まる時間をとうに過ぎているはずだった。
その時だ。窓の向こうから、いきなりサイレンの音が近づいてきた。最初は遠くで細い線のように鳴っていたのが、ぐい、と音量を増して、一気に耳を刺す。あの甲高い音が、山の斜面に跳ね返って、家全体を包むみたいに響いた。私は思わず身を起こして、タオルケットが汗ばんだ足に絡みつく感触に少しイラつきながら、窓際に寄った。
家の前の道は、車同士がすれ違うのもやっとなほど細い。そこを、赤い回転灯をぐるぐる回しながら、パトカーがゆっくり進んでいくのが見えた。ライトが我が家の壁と庭の植木を白く照らし、すぐまた闇に戻す。その刹那ごとに、外気のぬるい風と一緒にサイレンの振動が部屋に入り込んで、胸の骨の奥を小さく震わせた。
この道をパトカーが通ること自体は、全く無いわけじゃない。飲酒検問か何かで、静かにライトだけ回して走る姿を、何度か見た記憶がある。ただ、サイレンを鳴らしたまま入ってくるのは初めてだった。こんな奥まで鳴らして来るほどのことが、この町に起きるのかと、現実感が薄いまま、私はガラスに額を近づけていた。
サイレンは家の前を通り過ぎても止まず、その少し先――うちから四、五軒ほど行ったあたりで速度を落とし、やがて途切れた。代わりに、ドアが閉まる鈍い音や、無線の割れた声が夜気に混じる。何を話しているのかまでは聞き取れないが、人の気配だけは伝わってきた。私は母を起こそうか迷ったが、ふと寝室の襖の向こうから聞こえる寝息を思い出し、そのまま黙っていた。
サイレンが消えてから数分もしないうちに、今度は救急車の音が重なった。さっきよりも少し遅いテンポで鳴るサイレンが、また町を切り裂くように近づいて来る。今度も同じ細い道を通っていくヘッドライトが、障子越しに白く揺れた。私は喉の奥が乾くのを覚えながら、それでもただ見送ることしかできなかった。
その間、妙なことに気付いた。窓から入ってくる外気の匂いが、さっきまでと微妙に違う。湿った土と草の匂いの中に、うっすらと線香の煙のような、焦げてはいないのに焼けた灰の香りだけが混じっている。盆が近いから、どこかの家で早めに墓参りでもしているのだろうかと、その時はそれくらいにしか思わなかった。
サイレンが遠ざかり、また夜が元の暗さを取り戻すと、急に耳が詰まったような静けさが降りてきた。虫の声だけが、さっきよりも近く、大きく聞こえる。私はスマホの画面を一度点けて時間を確認し、何も書かれていないタイムラインを眺め、それからようやく布団代わりのタオルケットに潜り込んだ。胸の奥が妙に熱いままで、寝返りを打つたびにソファの布地がざらりと肌に擦れた。
翌日の午前、まだ空気が少しひんやりしているうちに、母が台所で味噌汁を温め直しながら、ぽつりと言った。
「昨日の夜、救急車通ったろう」と。私はお椀をテーブルに並べながら「ああ、見た」と返す。あのサイレンは夢じゃなかったのかと、改めて少しだけ現実味が増した。
母は、鍋から立ち上る味噌の匂いに顔をしかめながら、声を潜めた。「あの先の一人暮らしの人、家の中で亡くなっとったんだって」。箸の先から汁がぽたぽた落ちる音が妙に大きく響く。私は慌てて椀を持ち替えながら、「え、どの人」と聞き返した。母は、玄関から見て左奥にある古い二階建ての家の方を、あごで指し示す。
そこには、確かに男の人が一人で住んでいた。近所の人たちが「〇〇さんとこの弟さん」と呼んでいたのを覚えている。お盆の墓参りの時に、いつも薄いグレーのシャツを着て、無表情で黙々と草を刈っていた姿が、ぼんやり脳裏に浮かんだ。背中だけしか見たことがないくらい、会話を交わした記憶がない人だ。
母の話では、その人はまだいわゆる高齢というほどの年齢ではなかったらしい。仕事はよく分からないけれど、朝になると車を出して、夕方には戻ってくるのを何度か見たことがあるという。電気も普段通りついていたし、エアコンの室外機も回っていたから、誰も異変には気づかなかったのだと、母は言った。
「でも、結構経っとったみたいよ」と母が続けた時、味噌汁の湯気に混じって、さっき夜に嗅いだ線香に似た匂いが、ふと鼻の奥によみがえった。死後どれくらいかははっきり聞かなかったが、発見された時にはだいぶ傷んでいたらしい。母の友だちが、消防団にいる人から聞いた話だといって、濁した声で付け加えた。
私は味噌汁の表面に浮かぶネギをぼんやり見つめながら、スプーンでかき混ぜる手を止めた。あのサイレンの夜、私が見たパトカーと救急車は、その人の家に向かっていたのだと、ようやく線が繋がる。それと同時に、胸の奥にひっかかる小さな疑問が生まれた。「でもさ」と私は言った。「そんなに経ってたなら、なんであの夜に急に救急車が来たんだろうね」。
母は、その疑問には答えず、「町内の人も、盆の墓参りが最後だったって言っとるわ」と別の話に流した。去年の夏、墓地で見かけた時にはまだ普通に歩いていたとか、その後ぱったり姿を見なくなっていたとか。そんな噂話が、まな板の上で刻まれる野菜の音と一緒に、流れていく。
この町は、よくも悪くも何でもすぐに広まる。
誰がどこで何をしていたかなど、翌日にはだいたいの家が知っている。プライバシーという言葉とは無縁の、小さな世界だ。だからこそ、私は余計に引っかかった。誰も「あれ、自分が見つけたんだ」と言い出さないことが、不自然だった。
普通なら、自分が通報したという話は、武勇伝のようにどこかで漏れてくるはずだ。特に、ああいう「一人暮らしの人が亡くなっていた」という出来事は、酒の席や井戸端会議の良い話題になる。この町の人たちの性格を、私は嫌というほど知っている。誰がどこの病院に運ばれたとか、誰の家に救急車が来たとか、そういう話を、嬉々として話す人たちだ。
なのに、あの夜のことについては、「亡くなっていたらしい」という結果だけが先に歩き回り、肝心の「誰が気づいて通報したのか」という部分が、ぽっかり抜け落ちていた。誰も知らないと言い、誰も名乗り出ない。その空白が、味噌汁の湯気の向こうで、ゆらゆらと歪んで見えた。
数日後、私はまた街に戻った。アスファルトの照り返しと排気ガスの匂いに包まれた道を歩いていると、あの町のしっとりした空気は、すぐに夢みたいに遠くなる。けれど、深夜に遠くで救急車の音がすると、どうしても家の前を通ったパトカーの光景が頭をよぎった。部屋の窓ガラスに映る自分の顔が、あの人の無表情と重なる瞬間があった。
その夏が過ぎ、秋が来て、私はあの出来事を半分くらい忘れかけていた。
そんな頃、仕事帰りに駅のホームで電車を待っている時、母から電話がかかってきた。スマホが手の中でぶるぶる震え、その振動が驚くほど冷たく感じられた。ホームに吹き抜ける風も冷え始めていて、コートの襟をつまみながら通話ボタンを押す。
「この前の、一人で亡くなっとった人のこと、覚えとる?」と、母はいきなり切り出した。線路の下から上がってくる鉄と油の匂いが、妙に濃くなる。忘れかけていた記憶が、曇った窓ガラスを指でなぞられたみたいに、急に輪郭を取り戻した。「うん」と返すと、母は少し間を置いてから、声を潜めた。
「あの人の兄さんが、遠くに住んどるらしいんだけどね。夜中に電話があったんだって。『具合が悪い、助けてくれ』って」。その言葉を聞いた瞬間、ホームに流れる電車接近のアナウンスが遠のいて、耳の奥だけがじん、と熱くなった。電車を待つ人たちの話し声も、足元を行き来する冷たい風の感触も、急に現実味を失う。
兄のところに電話があったのは、あの夜の少し前の時間だったらしい。母が誰から聞いたのか、詳しくは言わなかったが、兄はただならぬ様子を感じて、代わりに救急に連絡したのだという。町は本部から離れているから、まず分署の消防車が様子を見に駆けつける。それから救急車やパトカーが呼ばれる。あのサイレンの順番は、そういう流れだったのだと、母は説明した。
私は、ホームの柱に背中を預けながら、その話を黙って聞いていた。背中に当たるコンクリートが冷たく、固く、じわじわとシャツ越しに体温を奪っていく。スマホを握る手のひらには、じっとり汗をかいていて、その湿り気がガラス面と皮膚の間でべたつく。通話の向こうで、母の呼吸がかすかに聞こえた。
「でもね」と母が続ける。「消防車が着いた時には、もうだいぶ前から亡くなっとった感じやったんだって。中、ひどかったらしいわ」。その言葉のあいまに、風がホームの端から端まで抜けていく。鉄の匂いの奥から、ふいに線香の煙のような、粉っぽく甘い匂いが鼻先をかすめた気がして、私は無意識に息を止めた。
「じゃあさ」と私は、車内アナウンスにかき消されそうな声で言った。「その、電話かけた時には、もう……」。言いかけて、喉が詰まる。電車がホームに滑り込んでくる。レールの上を走る音が、誰かが遠くで悲鳴をあげているみたいに高くなったり低くなったりする。
母は、少しだけ間を置いてから、「その辺はよく分からんのよ」と濁した。「兄さんが嘘ついとるんかもしれんし、時間の感覚が違っとるんかもしれんし……。でも、夜中に電話があったのは本当らしい。番号もちゃんと弟さんの携帯からやったって」。私は、ドアが開く音と一緒に、背中に流れる冷たい汗の筋を意識した。
電車に乗り込みながらも、通話は切れなかった。
暖房の効いた車内に入ると、さっきまで冷えていた手が急にむず痒くなる。吊り革につかまった指先から、さっきの話がじわじわと心臓のあたりに沈んでいくのを感じた。誰かが隣でコートを脱ぎ、その布が私の腕に触れて、ふわりと柔らかい感触だけが残った。
「結局さ」と母が言った。「誰も『自分が見つけた』って言わんのが、一番気味悪いわ。うちの町の人間なら、絶対ひとりくらいは自慢するのに」。私は曖昧に相槌を打ちながら、車内の窓に映った自分の顔を見た。ガラス越しの自分の目が、妙に他人のものに見えた。
電話を切ったあとも、私はしばらくスマホを手の中で転がしていた。画面は真っ黒なのに、さっきまで母の声が響いていた部分だけ、じんわりと温かい。耳の奥にはまだ、遠くでかすかに鳴り続けるサイレンの残響が残っていて、それが電車のブレーキ音とゆっくり混ざり合っていた。
その日から、私は妙なことに気づき始めた。
夜中、布団に入ってからうとうとしていると、枕元に置いたスマホが震えるでもなく、突然重く感じる瞬間がある。手を伸ばして画面を確認しても、通知は何も来ていない。それなのに、指先には確かに何かを掴んでいるような圧が残っている。冷たくも熱くもない、中途半端な温度の何かが、手のひらに粘りついているような感覚だった。
ある晩、私は夢を見た。夢の中で私は、知らない部屋の畳の上に倒れていた。畳は汗と埃と、何か甘ったるい匂いで湿っていて、頬に張り付く。胸のあたりが重く、息を吸うたびに冷たい空気が喉の奥をざらざらと擦っていく。部屋の隅ではエアコンの室外機の低い唸りがしていて、外からは虫の声が聞こえる。どこかで嗅いだことのある、あの町の夏の匂いだった。
視界の端には、机の上に置かれた携帯電話が見えた。黒い小さな長方形。その表面に、窓から差し込む街灯の光が、薄く反射している。私は腕を伸ばそうとするが、身体が重くて動かない。湿った空気が肌に貼り付いて、関節のひとつひとつを固定しているようだ。それでも、指先だけが、畳の上を少しずつ這う。畳の目が爪の間に食い込む感触が、妙にはっきりしていた。
指がようやく机の足に触れた時、私は自分の手ではないような感覚に襲われた。皮膚の質感も、骨の太さも、自分のものと微妙に違う。それでも、その手は机の角を掴み、身体を引き寄せようとする。腕の中を、冷たい水を満たしたホースを無理やり動かしているような重さが流れる。息は浅く、肺の中で空気が冷たく固まっていく。
ようやく机にしがみつくようにして携帯電話を手に取った時、私はその機種が、自分が昔使っていた少し古いタイプのものに似ていることに気づいた。ボタンを押すと、画面がじんわりと光を帯びる。指は迷わず、とある番号を押した。押すたびに、指先とボタンの間で、小さな音と共に温度が跳ね返ってくる。冷たいはずのプラスチックが、なぜか生温かい。
耳に当てると、コール音がたった一回だけ鳴り、それからすぐに誰かが出た。受話口から、遠くで鳴るテレビの音と、冷蔵庫の低い唸りと、布団が擦れる音が微かに混じった空気が流れ込んでくる。その空気が耳穴から直接肺の中に入り込むようで、私は思わず咳き込みそうになった。
「もしもし」と、向こうの声が言った。その声は、どこか聞き覚えがある。少し高めで、気を遣ったような語尾。何年も前から慣れ親しんだ、家族に話す時の癖がある。私は、夢の中であることを忘れて、その声の主を探ろうとした。けれど、答えを出すより早く、自分の口から言葉がこぼれた。
「具合が悪い。助けてくれ」
自分の声なのに、他人のもののようだった。喉の奥が乾いてひび割れたような、掠れた音。言葉が口を出るたびに、胸の中で冷たい水が波打つ。向こう側の空気が一瞬止まり、それから慌てたように声が重なった。「どうしたん。救急車呼ぶけえ、ちょっと待っとり」。その言い回しに、私はそこでようやく気づいた。あれは、母の声だった。
夢の中の私は、母の声を聞きながら、耳に当てた携帯がやけに重く感じることに気づいた。もっと早く言わなきゃいけないことがある気がしたのに、舌がうまく回らない。肺に入る空気がどんどん冷たく、重くなっていく。部屋の中には、いつの間にか線香の匂いが満ちていて、それが喉の奥にべったり貼り付く。私は、自分の体が畳に沈んでいく感覚と一緒に、すとん、と深いところに落ちていった。
目が覚めた時、部屋は真っ暗だった。カーテンの隙間から、街灯の光が細く差し込んでいる。布団の中の空気が妙に冷たく、背中に汗をかいているのに、肌寒さが消えない。枕元のスマホを掴むと、ガラス面が冷蔵庫の中みたいに冷えていて、その冷たさに指が少し震えた。時間を見ると、夜中の二時過ぎ。通知は何も来ていない。
その時、不意に鼻の奥にあの匂いが蘇った。
線香と、湿った畳と、わずかに混じる生ぬるい匂い。窓から入り込む外気は、真冬に近いはずなのに、鼻先だけが夏の夜に戻っている。私は布団の中で身を縮め、汗で湿ったパジャマが背中に張り付く感触に、ぞわりと鳥肌が立つのを感じた。遠くで、救急車のサイレンが小さく鳴り始めた。
翌朝、私は何となく落ち着かない気持ちのまま、母に電話をかけた。夢の話をするつもりはなかった。ただ、あの人の話を、もう一度聞いておきたい気がした。スマホを耳に当てると、向こうからはいつもの鍋や食器の当たる音が聞こえてきて、それだけで少し現実に戻れる気がした。
「この前のさ」と私は切り出した。「一人で亡くなった人の電話、兄さんにかかってきたって話、あったじゃん」。母は「ああ、あれね」と呑気な声で返し、「あれさあ、よう考えたら変なんよ」と笑い混じりに言った。私は思わず身を乗り出す。
「何が」と聞くと、母はガスコンロの火を弱める音を立てながら、「兄さん、最初は『夜中にかかってきた』って言うとったんじゃけどね。あとから時間聞いたら、どうも消防車が来るより後なんよ」と言った。「消防の人が『もう何日も前から亡くなっとる』って言うくらいの状態だったのに、その後で電話があったことになっとる。誰がボタン押したんかねえ」。
母は、あくまで世間話の延長のように、それを言った。けれど、私の手のひらには、冷たい汗がじわっとにじんだ。耳の奥で、昨夜の夢の中の自分の声が反響する。「具合が悪い。助けてくれ」。あの言葉は、誰の口から出たものだったのか。
もし、あの男性が自分の死に気づいていなかったのだとしたら。身体はとっくに動かなくなっているのに、意識だけが夏の夜の部屋に取り残されていて、いつもの癖で、慣れた番号に電話をかけたのだとしたら。そう考えると、あの夢の中で畳の上に倒れていた身体が、自分のものか誰かのものか、途端に分からなくなってくる。
私は電話を切ったあと、しばらく自分のスマホをじっと見つめていた。
画面には、母の電話番号が履歴として残っている。その数字列を眺めていると、ふいに指が勝手に動き出しそうな衝動に襲われた。胸の奥が薄く冷えていき、喉のあたりに何かが引っかかる。まるで、どこか遠くから「早く押せ」と急かされているような感覚だった。
それ以来、私は実家に帰るたびに、あの家の前を意識的に見ないようにしている。角を曲がればすぐ見える位置にあるのに、視線をそらし、足早に通り過ぎる。けれど、夏の夜になると、どうしても耳がそちらに向いてしまう。虫の声の合間に、誰かが畳の上を這うような、布と皮膚が擦れる小さな音が混じっている気がするのだ。
去年の盆に帰省した時、深夜にまたサイレンの音がした。今度は違う方角からだったが、私は反射的に布団から起き上がり、窓の外をのぞいた。赤い光が遠くの山肌をちらちら照らし、すぐに闇に飲み込まれていく。その時、枕元のスマホが少し震えたような気がした。実際には、着信は無かった。けれど、手を伸ばして掴んだ瞬間、ガラス面が異様に生温かく感じられた。
そのまま耳に当ててみる。もちろん、何の音もしない。
ただ、自分の鼓動だけが、壊れたメトロノームみたいに不規則に響いている。しばらくそうしていると、不意に、誰かが小さく息を吸うような音が聞こえた気がした。ぞくりとしてスマホを離す。画面は真っ暗で、自分の顔だけが映っている。
あの夜から、私にはひとつだけ、強く確信していることがある。この町で最初にあの人の異変に気づいたのは、近所の誰でもなく、遠くに住む兄でもなく、もっと別の「誰か」だということだ。その「誰か」は、畳に沈みながら、懐かしい番号を指で辿った。いつものように、家族の声を求めて。
そして、その一連の動作を覚えているのは、もう本人だけではない。あの夜、私は田舎の家のソファで、眠れないままスマホを握っていた。指先に張り付いていた汗の感触も、窓から入ってきた線香の匂いも、サイレンが胸の骨を震わせた感覚も、全部まだ身体のどこかに残っている。
もし、あの時、彼が押した番号が少しだけ違っていたら。もし、兄ではなく、たまたま実家にいた私のスマホに繋がっていたら。たぶん、私は今と変わらない調子で、「どうしたん」と答えていただろう。その向こうから、自分とよく似た声で「助けてくれ」と言われることに、少しだけ違和感を覚えながら。
そう考えると、あの夢が誰の記憶だったのか、だんだん分からなくなってくる。
私が誰かの最後の数分をなぞっているのか。それとも、まだ来ていない自分の数分を、先に見せられているのか。どちらにしても、指先が番号を押す感触だけは、妙に具体的だ。冷たくも熱くもない、あの中途半端な温度が、何度も蘇る。
だから私は、夜中に目が覚めるたびに、枕元のスマホを裏返しにして置くようになった。画面を下にしてしまえば、きっと誰かの指も、ここまでは届かない気がする。……そう思い込もうとしているだけかもしれないが。時々、布団の中で目を閉じると、耳の奥で、あの一度きりのコール音が鳴る。
「具合が悪い。助けてくれ」
その声が、あの人のものなのか、私自身のものなのか。いつか区別がつかなくなる日が来るのかもしれない。きっとその時、私は無意識に慣れた番号を押す。遠く離れた誰かのスマホが震え、その人は「どうしたん」と応えるだろう。
あの夜、田舎の細い道をサイレンを鳴らして進んでいったパトカーと救急車。その音を、窓辺で聞いていた私の身体のどこかに、あの人の「通報する手」が乗り移ったのだとしたら――。
誰が、あの人の死を見つけて通報したのか。今では、私はこう考えている。あの電話をかけた「誰か」は、すでにここにいて、次に押すべき番号をじっと待っているのだと。私の指先の中で。
[出典:727 :本当にあった怖い名無し:2023/08/27(日) 04:38:09.62 ID:NE8XCTiK0]