一人暮らしというのは、自由と引き換えに孤独と責任を手に入れることだと、どこかで聞いた。
だが、自分がかつて経験した一人暮らしは、そのどちらとも違っていた。そこには、最初から最後まで、説明のつかない「同居」があった。
数年前、駅から徒歩十分ほどの場所にある、古いワンルームアパートに住んでいた。築年数はそれなりだが、壁も床もきれいで、内見のときは特に問題を感じなかった。玄関を開けるとすぐにキッチン、その奥に六畳ほどの居室があり、窓際にベッドを置くとほとんど隙間は残らない。典型的な一人暮らし用の部屋だった。
住み始めてしばらくは、何事もなかった。
違和感を覚え始めたのは、季節が一つ変わった頃だ。仕事を終えて帰宅すると、部屋の様子がほんの少しだけ違って見える。ゴミ箱が、朝よりも数センチ壁から離れている。閉めたはずのカーテンに、指で押し広げたような隙間がある。机の上のリモコンの向きが変わっている。
どれも些細な変化で、誰かに話せば「気のせい」で終わる程度のものだった。実際、そのときの自分もそう考えた。疲れているだけだろう。記憶違いだろう。自分にそう言い聞かせて、深く考えないようにしていた。
ただ、どうしても説明できない点が一つあった。
毎回、その違和感は「帰宅した直後」にだけ感じられたのだ。部屋に長くいるうちに、だんだん気にならなくなる。まるで、何かが元の位置に戻るのを、こちらが見慣れてしまうような感覚だった。
決定的な出来事が起きたのは、ある平日の夜だった。
風呂から上がり、タオルを首にかけたままベッドに腰を下ろした。机の上には、大きなスタンドミラーを立てかけてある。化粧水を手に取り、鏡を見ながら顔につけていたとき、肘が当たった。バランスを崩した鏡が、ケースごと床に倒れた。
鈍い音がして、中に入れていたアクセサリーが床に散らばった。思わず舌打ちしながら、しゃがんで拾い集める。最後の一つに手を伸ばしたとき、倒れた鏡に視線が落ちた。
そこに映っていたのは、ベッドの下だった。
自分の影が映り込んでいる。その奥に、影とは明らかに違う輪郭があった。人の顔だった。知らない女が、ベッドの下からこちらを見上げていた。
目が合った。
悲鳴は出なかった。喉が完全に固まり、息の仕方を忘れた。鏡越しに見るその目は、はっきりとこちらを捉えていた。虚ろだが、意識はある。夢や錯覚ではないと、身体が先に理解してしまった。
女は動かなかった。こちらも動けなかった。鏡の中で、時間だけが歪んだように伸びていく。次の瞬間、身体が勝手に反応した。立ち上がり、鍵も閉めずに玄関を飛び出した。
近くに住む知人の家に駆け込み、震える声で事情を話した。警察が呼ばれ、パトカーが何台も集まった。自分は廊下の端に立たされ、部屋の中を調べる様子を遠くから見ていた。
だが、女はいなかった。
ベッドの下は空だった。押し入れも、ユニットバスも、天井裏も確認されたが、誰も見つからない。鍵にこじ開けられた痕跡もない。警察は首をかしげながら、念のためしばらく様子を見るようにと言って帰っていった。
部屋に戻ることはできなかった。
後日、管理会社の立ち会いで荷物を引き上げた。そのとき、ベッドの下の奥から、小さな紙切れが出てきた。折り込みチラシの裏に、走り書きで「ごめんね」とだけ書かれていた。紙の横には、汚れた十円玉が一枚置かれていた。
それ以上、何もわからなかった。
女がいつからいたのか。なぜいなくなったのか。そもそも、本当にいなくなったのか。警察は一度も「侵入者がいた」とは断定しなかった。ただ、記録だけが残った。
今でも、一人で部屋に住むことができない。
玄関を開けたとき、空気が少しだけ違うと感じるとき。家具の位置に説明できないズレを見つけたとき。鏡が不意に倒れたとき。
あのとき、自分はベッドの下を覗いていない。覗く必要がなかったからだ。鏡が、すでにそこを映してしまっていた。
もし次に、部屋の中で何かと目が合ったら。
それは、本当に「初めて」なのだろうか。
[出典:925 :おさかなくわえた名無しさん:2007/02/03(土) 16:02:10 ID:a59l0bc9]