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舵子の悲劇【ゆっくり朗読】7100

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映画:怒りの孤島

上映時間・108分 配給作品(日映作品)1958年(昭和33年)
水木洋子が書いた原作(NHK放送劇)を水木洋子自ら脚色、久松静児が監督した社会ドラマ。撮影は木塚誠一。主演は鈴木和夫など、この映画のために選ばれた少年たちを中心に織田政雄、岸旗江、岸輝子、左卜全、原保美など。

瀬戸内海に浮かぶ孤島「愛島」は、岩石ばかりの小さな島、鯛の一本釣りをする親方によって支配されている。激しい渦潮の中で漁のおり船の操舵を担うのは舵子といわれる少年たちで、労働と虐待に暗い日を送っていた。
そこへ七人の少年が、仲介人の猪造に連れられ、舵子になるためにやって来た。古くからいる鉄は親方の怒声と鞭によって、ほとんど無表情になっている。彼の親友直二は、鰯を盗んだというだけで、小さなエサ箱にとじ込められ、食物を断たれていた。鉄はそうした直二に、そっと食物をさし入れることによって、わずかに人間らしい心をとりもどすのだったが、新しく島に来た幸太郎等は、鉄の冷たい態度を理解することができなかった。やがて少年たちは、激しい労働に耐えられずついに島を脱出しようと計画する……

戦後間もない頃、瀬戸内の孤島で実際に起きた事件に材を採ったこの作品は、封切り当時には大きな反響を呼び、文部省推薦作として各地の学校でも上映され、多くの人に感銘を与えながらも、製作した日映が僅か二作品を製作しただけで解散してしまうなど諸事情でその後劇場で再映されることもなく今日に至り、また、今後ソフト化等も望めない作品として、幻の映画となった。

舵子舟唄:水原淳
作詞:藤間哲郎/作曲:大沢浄二/発売:昭和33年(1958年)

小学校で観せられた映画。
瀬戸内海の島に子どもが鶏小屋に入れらて、空腹で石を食べる

『大阪広告代理店マンのシネマ映画』より引用

「怒りの孤島」は、「子盗り」で売られた少年が、鶏小屋みたいなところに入れらて空腹のあまり小石を食べて死んでしまう怖い怖い映画。小学生の時 強制的に観せられた映画。

何十年経っても、トラウマのように、石を食べるシーンが夢に出てくる。
日本で本当にこんなことがあったのかと疑い出し、もう一度観ようとするもタイトルが分からない。

あの映画のタイトルを知りたくて、みんなに聞いても、そんな映画は観たことがない、日本では有り得ないと、まず誰も日本であったこと信じてくれない。しかも戦後の話だったから、余計に。
ネットで調べても出てこない。実在事件だったから、消されている可能性があると、古本屋の映画本探してもなかった。第一、文部省があんな映画を小学生に見せる意図も確かにおかしい。

夢だったんだと信じかかっていたら、いたんです、同じように小学生の時見せられて、やっぱりうなされ続け、あのタイトルなんだった?ていう問いがあった。それを手繰っていったら、見つかりました。案の定、事件は実在していたので、舞台となった島が、糾弾を受けて、ほとんど削除されていたんです。「怒りの孤島」山口県情島(広島県にも情島があります)で起きた児童虐待事件「舵子事件」(映画では愛島と変えられている、すごいブラックジョーク)

昭和20年代初頭に瀬戸内で起きた児童虐待事件「舵子事件」を題材に、水木洋子が書き下ろしたラジオドラマを水木自らが脚色し、久松静児が監督した社会派映画。文部省推薦だった。
※製作会社の日映は、大映の専務であった曽我正史が立ち上げた映画会社。「怒りの孤島」が第1回作品。なお、曽我と共に大映から独立した市川久夫が企画を担っている。

瀬戸内海では、昔からあった子飼制度(いわゆる子盗り(コトリ)がさらってきたコドモを、人を雇うことができない貧しい島々で買って労働力にしていた。鶏小屋に閉じ込めて、まるで家畜のように幼い子どもたちを扱っていた。それを文部省が小学生を集めて見せていたんです。
ぼくらは、もちろんショックでした。未だにすべては忘れられない。

でも、いつの頃か、消されれ、ぼくより下の年代には、見せなかった、というか隠した。製作会社も日映だし、もうとっくにない。
2010年に二木てるみ(子役で出演:ポスターの少女)をゲストに上映会もあったらしい。
別に今更見たいと思わないけど、そんな事件と言うより、歴史があったということで十分。

さて情島は昭和三十三年離島振興法の適用を受けることになって
それを機会に瀬戸内海の小島がどんな状況にあったかをこの島を通じてご覧ください。

この島は山口県大島の東端にあって周囲は6キロメートル。近く島の最高海抜148メートルで南半分は、山が海にせまっている断崖絶壁。島の西北部及び南部にはやや緩傾斜のところがあって、そこは畑に拓かれているが集落はそこにはなく、山が海にせまっている東海岸の入江になった四カ所にある段々畑島。つまり地形的には耕作にはたいして適地もない東岸に人が住んでいるということは、この島がその初めから農業が主じゃなく、漁業を主業として成立した島だった。
現在は言語も風俗も愛媛県の文化圏の中に属し、集落も東岸にあって西岸には見られなくなっている。
あの風習(子飼い・子盗り)は、よく親に「はよ帰らないと子盗りに持ってかられるよ」と普通よく使われるの脅し文句だった訳だから、情島だけの特殊な者でなかったはず。

[出典:https://cinema75.seesaa.net/article/201403article_1.html]

奴隷島~梶子(舵子)と呼ばれた児童強制労働

1948(昭和23)年7月、瀬戸内海に浮かぶ山口県周防大島(屋代島)でボロボロの格好をした19歳と17歳の少年が警察によって保護された。2人は対岸にある情島(なさけじま)【山口県油田村(現周防大島町)】で、操業中の漁船で櫓を操る作業をする為に、強制労働を強いられていたのであった。
情島では古くより「梶子(舵子):かじこ」と呼ばれる、漁船の舵をとる役目を子供にさせる風習があった。
元々は島の子どもを使っていたが、大正時代の頃になると人手が足りなくなり、愛媛県から貧しい家の子どもを前金で3年~5年雇っていたりした。
戦後になると人手はますます不足し、漁師たちは都市部で孤児や家出少年に「魚をたらふく食わせてやる」と声を掛けて島へ連れ出し、過酷な労働(漁)に従事させていたのである。

梶子たちは朝4時に起こされて漁に出て、寝るのは早くても深夜11時過ぎ。
漁の最中に失敗したり、逃げ出して捕まったりすると親方に棒や玉網の柄が折れるほどの激しいリンチを受けていた。休みは正月三が日と盆の夜のみで、食事も満足に与えられずにいたため、栄養失調で幽霊のように痩せ細っていた。ほとんどの子どもは学校に通わせてもらえていなかった。

事件が地元紙に報じられると、警察の捜査や国や県の調査が入った。
調査により50名あまりの梶子が島にいることが確認された。
前借金で買われた者、戦災孤児などの他、感化院や孤児院といった公の児童福祉施設から、秘密裡にもらい受けていた事実も発覚した。

さらに、2年前にひとりの梶子が“いけす”に監禁され餓死した事実も明らかになる。
監禁した親方は殺人の罪で逮捕されたが、実態が明るみになってからも島の住民たちに限らず、行政や報道する立場にいる者にも梶子に理解をしめす者が多数いた。
戦後間もないこの頃は、日本中が貧しく厳しい生活を強いられていた人が多く、戦災孤児も街にあふれていた。農家や漁師の子どもは家業の手伝いをさせられ満足に学校にも行けなかった子が少なからずいた時代。

また、国の児童福祉制度も充分に機能していなかったことや、教育関係者の中には梶子は不良少年の更生に役立っているという意見も多くみられ、梶子を「必要悪」だとする空気が地域・社会を広く覆っていた。
(周防大島出身の民俗学者・宮本常一も後述する梶子を題材とした映画に対して批判し、一部の特異な出来事を誇張したに過ぎないと、梶子制度を擁護している)

それでも国や県の指導により、きちんと雇用契約を結ぶことや、12歳以下の子は労働させないこと・義務教育を受けさせること、リンチを加えないこと等を確約させると共に、離島を望む者は離島させること、極力里子として養育することが求められた。
しかし餓死させた1件を除き、梶子制度が刑事事件化されることは無かった。

この時、結局十数名の梶子が情島を離れたが、残りの梶子たちは島に留まった。
島を出ても行くあてが無かった者が多かったからである。

こうして終息したかにみえた梶子事件は、3年後の1951年になって再発する。
虐待に耐えかねた梶子5名が脱走して、児童相談所に保護された。
少年たちは前回の事件以降も待遇が変わらなかったことを訴えた。
行政から指導されたことが守らることは無かったのである…

梶子事件を題材にNHKラジオがドキュメント・ドラマ『舵子』が作成され、1957年には映画『怒りの孤島』(久松静児監督)が上映されている。

当時の日本では、この梶子の他にも農村や漁村において人身売買によって過酷な労働を強いられていた児童が数多くいた。
・沖縄糸満地方・八重山諸島の漁村「糸満売り
・沖縄慶良間諸島の漁村「慶良間売り」
・沖縄の貧農の子が富農の家に売られる「インジャ」
・山形県飛島の漁村「南京小僧
・津軽地方の農村「借子」
・下北半島の漁村「養子ワラス」
・宮城県牡鹿半島の漁村「モライコ」
・徳島県南部の「ヤシナイ」
等がある。また、栃木県平石村(現宇都宮市)といった北関東地方でも、東北地方の貧農の子を買って、農業に従事させる風習が戦後まであった。
こうした農村漁村における児童人身売買・児童強制労働は、高度経済成長によって、都市部で労働力が大量に必要とされるまで無くなることはなかった。

[出典:https://seesaawiki.jp/]

参考資料

「戦後民主主義」の下、人身売買はどのような論理で維持されてきたのか。超インフレ、ドッジ不況、農地改革、北海道・東北冷害、炭鉱合理化…目まぐるしく変動する戦後の日本で、女性・子どもの人身売買は「暗黙の了解」としてまかり通っていた。敗戦まもない1940年代後半から高度経済成長に向かう1950年代を中心に、全国各地の史資料を渉猟、現代につながる問題の実態を明らかにする。研究史の空白を埋める貴重な成果。

戦後日本の人身売買/藤野豊

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