猫が人間を操るなんて、冗談でも言いたくなるようなことだと思っていた。
いや、今でもそう思いたいのかもしれない。ただ、それを頭から否定できない自分が、ここにいる。
うちには猫が五匹いる。どいつも野良出身だが、拾って育てているうちにそれぞれ個性が出て、今ではまるで一つの小さな社会ができているようだ。
夜はそれぞれが好きな場所で眠る。窓際だったり、ソファの背もたれだったり、人の腹の上だったり。
ある晩、妙な気配に目が覚めた。時計を見たら午前三時を少し過ぎていた。家の中は真っ暗で、風の音も虫の声もなかった。
にもかかわらず、何かが囁き合うような感触が、耳の奥に残っていた。
起き上がって、ふと縁側の方に視線をやると、そこにいた。
五匹の猫が、ずらりと横一列に並んで座っていた。背筋をぴんと伸ばし、誰一人身じろぎもせず、ただカーテンの向こうを見つめている。
まるで、何かを待っているようだった。
いや、待っているのではない。話しているのだ。――誰かと。
相手は窓の外にいるのだろうか? けれど、そのカーテンは分厚くて、夜の外なんて見えるはずがない。
目を凝らしていると、頭の奥に響くように、声がした。
女のような、男のような、年老いたような、幼いような、そんな声が。
「……何とかなりませんか」
「こちらだけの力では……」
「……そこをなんとか」
「そちらからも働きかけてください……」
理解する間もなく、声はふっと消え、猫たちが一斉に散った。
何事もなかったように、寝床に戻り、毛づくろいし、また眠りについた。
幻覚か、夢か。そう思おうとしたが、背中に浮かんだ冷たい汗だけが、それを許してくれなかった。
それから数日後、近所に売りに出されていた中古物件を、連れと一緒に見に行った。築三十年の家だったが、妙に綺麗だった。
間取りも日当たりも申し分なく、どこか懐かしい匂いがした。猫たちも喜びそうな、陽の差す縁側もある。
気に入った。でも、すぐに決めることはできなかった。
金銭的な問題もあるし、何より猫たちが新しい環境に馴染めるかどうかもわからなかった。
その晩、うちのボス猫を膝に乗せて、ぽつりと呟いた。
「新しい家、買ってもいいかなって思ってるんだけどさ……」
猫は何も言わない。ただ、じっとこちらを見つめたあと、膝から音もなく飛び降りた。
その動きが、どこか人間じみていて、背筋がぞわりとした。
あれから数ヶ月が経ち、例の家は値下げされた。それでも、心が動かなかった。何かが決め手に欠けていた。
そして、ある夜。
寝ているはずの連れが、ぽつりと口を開いた。
「イマ……」
「イマナラ……」
ぼんやりした声だった。けれど、それが連れの声に聞こえなかった。
なぜか、もっと高く、どこかざらついた音に聞こえたのだ。人間の声帯ではない何かが、喉を借りて発したような。
「おい、寝言か?」と話しかけたが、返事はなかった。
翌朝、連れに聞いても、何も覚えていなかった。寝言なんて滅多に言わないのに、不思議なこともあるものだと苦笑された。
だが、なぜだろう。あの「イマナラ」が、何か合図のように思えて仕方なかった。
それから数日後、またふらふらと例の家の前まで行ってみた。
そこに、見慣れないスーツ姿の男がいて、家の写真を撮っていた。
胸騒ぎがした。不動産屋に電話をすると、まさに別の客が内覧を申し込んだところだという。
「今なら、あなたが最初に問い合わせたので、優先的にご案内できますよ」と言われ、気がつけば口が勝手に「お願いします」と答えていた。
それからの動きは早かった。契約も、ローンも、全てが妙にすんなり通った。
まるで、誰かが道を掃き清めて待っていたかのように。
引っ越してから、猫たちは驚くほど早く馴染んだ。
日差しの中で腹を見せて寝転び、夜にはまた例の縁側に集まって、誰かと会話しているような素振りも見せる。
幸せだ。たぶん、本当に。
けれど、ふと思うことがある。
あの寝言は、誰の声だったのか。
そして、あの夜に聞こえた声たちは、本当に幻だったのか。
亡くなった猫のことを思い出す。
まだ引っ越す前、年末の底冷えする夜に、猫白血病で逝った。寒くて、湿気の多い家だった。
もっと温かい家なら、あるいは――。
もしかしたら、猫たちはそれを忘れていなかったのかもしれない。
この家を望んでいたのは、自分たち以上に、あの五匹だったのではないか。
カーテンの向こうで、誰かと交渉していたのは、そういうことだったのかもしれない。
だから、連れの声を借りて、背中を押したのだ。
「イマナラ」――今が、その時だと。
猫はただの動物だなんて、誰が言った?
あの家は、猫が招いたものだ。
そう信じている。
……いや、信じざるを得ないのだ。
[出典:668 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2015/11/22(日) 07:59:38.61 ID:5bn8yY2e0.net]