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ラッパの前に畳むもの r+3,505

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予備自衛官補だった頃の話だ。

もう十年以上も前になるだろうか、季節は夏、湿気の張りついた空気が制服の下を這いまわるような日々だった。大学の講義を終えて電車を乗り継ぎ、郊外の駐屯地に入ったのを、今でも鮮明に思い出す。

予備自とはいえ、やることは本職と大差ない。
早朝六時、爆音のラッパがスピーカーから鳴り響き、まるで戦場の開戦を知らせるかのように叩き起こされる。
その音がまだ耳をつんざく中、寝汗で湿った迷彩服に袖を通し、ベッドサイドで慌ただしく着替える。
一分遅れただけで大声で怒鳴られる。二分遅れたら全体責任で腕立て伏せ百回だ。

部屋は相部屋、まるで軍用の冷蔵庫のように白くて無機質な空間に、二段ベッドがきっちり詰め込まれている。
最大で十人が寝泊まりできるが、そのときは五人だけだった。
学生、社会人、無職もいたかもしれない。皆、何かを満たすようにこの制度に惹かれて集まっていた。

その夜も、訓練に疲れ果てて消灯と同時に眠りに落ちた。
夢も見ない、ただ深い泥のような睡眠だった。

そして……次に目を覚ましたのは、ラッパの音だった。

そう思った。
けれど、実際には鳴っていなかったのだ。

条件反射で体を起こし、迷彩服に手を伸ばすと、それがベッドサイドにきちんと掛かっているのを確認した。
おかしい。あの音は確かに耳に届いたのに、他の連中は誰一人として起きていない。
部屋は深い闇に包まれたまま、静まり返っていた。

ふと、右斜め前、二つ先のベッドで人影が動いた。

誰かがいる。
立ち上がり、ゆっくりと、布のようなものを畳んでいる。
淡く、揺らぐような動き。けれど、それは確かに“そこに居る”。

そこは誰も使っていないベッドだったはずだ。
五人部屋で五つのベッドのうち一つは空いていた。
なのに、誰かがそこに立っている。

まさか、と思いながらも、半ば寝ぼけたままの口で

「おはようございます」

と声をかけた。

返事はなかった。
動きも止まらず、ただ黙々と布を畳んでいる。
聞こえていないのか、それとも――聞こえたうえで、無視されたのか。

その瞬間、寒気が背筋を走った。
思わず左手首のG-SHOCKを照らし、時間を確認する。
まだ五時前だった。ラッパが鳴るには、早すぎる。

近づけた腕時計の光が顔を照らし、そこでふと気づいた。

眼鏡をかけていない。

自分の視力は裸眼で0.01以下、眼鏡なしでは隣のベッドの人間の顔すら識別できない。
なのに、二つ先のベッドの“人間”がはっきり見えていた。
そのTシャツの皺までも。
畳まれていく布の動きまで。

暗闇の中、細部まで鮮明に見えるものなど、この世に存在してはいけない。

瞬間的に理解した。
これは、“見えてはいけないもの”だ。

慌ててベッドに潜り込んだ。
毛布を頭までかぶり、呼吸を押し殺す。心臓が暴れ馬のように跳ね回り、鼓膜の裏から脈打つ音が聞こえる。

こっちに来るな。
来ないでくれ。

まるで時間の止まった世界で、一時間以上が経ったような気がした。
だが、ようやくラッパが鳴った。現実の音が闇を裂いた。

光が射し、仲間たちが起き上がる。
空気が動き、人の声が戻ってきた。
恐怖はまだ、指先に爪を立てるように残っていた。

次の日、訓練の合間に靴を磨いていたとき、思い切ってリーダー格の自衛官にその話をした。

「昨日、変な時間に目が覚めて……誰かが、畳んでたんですよ。誰もいないはずのベッドで」

男は手を止め、俺の顔をちらと見て、ふっと鼻を鳴らした。

「やっぱ出るんだな」

と、あっさり言った。

聞けば、隣の部屋は使われておらず、鍵もかけられているという。
曰くつきなのだそうだ。

「あそこの部屋だけ、三階の窓に鉄格子がついてるだろ。飛び降りが多くて、後からつけたらしい」

「納屋もな、出るってよ。首吊ったやつが」

「そういや、昔ここにいたやつで、自分で腹切ったのもいたな。訓練中にいきなりよ」

語るほどに、淡々としたその声の裏に何かの重みがあった。
“慣れている”人間の声だった。

俺はその日、寝る前に迷彩服を畳む手に、軽い震えを感じた。
眠るのが、怖かった。

最終的に、その訓練にはそれ以上行けなくなった。
心療内科に通い、静かに三年の任期を終えた。

今でもあの朝の光景は忘れない。
真っ暗な部屋の中で、見えないはずのものが、はっきりと見えてしまったあの感覚。

あれは誰だったのか。
なぜ布を畳んでいたのか。
俺に返事をしなかったのは、もしかすると――

返事を“してはいけなかった”からかもしれない。

[出典:179 :1:2019/10/20(日) 10:29:43 ID:3kMAWXUP0.net]

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