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弁当箱を取りに戻った夜 rw+4,616-5,044

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背中の皮膚がざらつく。あの話を思い出すたび、そうなる。

聞いたのは、下請けで時々顔を合わせるコウさんからだ。酒の抜けきらない昼の休憩時間、灰色のプレハブの中で、彼は唐突に言った。「おまえ、怖い話好きやろ?」

四十五前後。肩幅が広く、真冬でもランニング一枚で鉄骨を担ぐ男だ。だが家庭の話になると、途端に声が細くなる。「嫁に知られたら終わりや」が口癖で、現場ではよくからかわれていた。その彼が、あの日だけは笑わなかった。

「十五年ほど前や。山でな、見てしもた」

舞台は夏の谷あい。砂防ダムの工事現場だった。昼はセミと重機の音で耳が麻痺する。日が落ちると、湿った土と油の匂いだけが残る。闇は深く、空気は水気を帯び、光を吸う。

作業後、帰路に就いた直後、弁当箱をバックホウの操縦席に置き忘れたと気づいた。「二日越しはあかん。嫁に見つかったら地獄や」理屈よりもその恐怖が勝った。彼は引き返した。

谷は夜になると音が研ぎ澄まされる。水の気配がやけに近い。「バシャッ、バシャッ」規則的な水音が闇の奥から届いた。照明はない。月明かりが機械の影を細く伸ばす。音は、ダムの仮設堤の向こうからだった。

臆病さが胸の奥でざわつく。だが彼は歩いた。土砂に足を沈ませ、息を浅くして、音のほうへ。

そこに立っていた。

土のうの山の上。水をせき止める壁の上に、人影。スキンヘッド、全裸。体には墨のような模様が絡み、湿気を帯びた皮膚が月にぎらつく。手には棒。水面に打ちつけるたび、低く濁った音が返る。

彼は必死に現実的な説明を探した。「誰かが魚を取っとるんか」。だが場所も格好も、理屈を拒んだ。見てはならないものに遭遇した、という感覚だけが残る。

水面が揺れる。棒が落ちるたび、ぶよぶよとした塊が浮き沈みする。目を凝らす。猿、鹿、毛皮の剥がれた体。白んだ眼球。腐臭が湿気に混じる。人影は死骸を叩き、棒を口元に運ぶ。舐める。ためらいなく。

声が出た。抑えられなかった。

動きが止まり、ゆっくり振り向く。目が合う。瞳孔が広がりきり、白目が月を拾う。棒が落ちる。人影は土のうを跳ね、こちらへ来る。「なああああ」意味を持たない音が谷を裂く。腕が振られる。走る。彼は走った。

車に飛び込み、エンジンをかける。手が汗で滑る。シフトをバックに入れ、後退のまま谷を下る。カーブも勾配も構わない。バックライトが闇を裂く。振り返らない。振り返れない。

国道に出るまで、止まらなかった。

事務所で「異常が起こった」とだけ伝え、家に逃げ帰った。背中の冷汗は止まらなかったという。翌日から彼は現場に来なかった。仕事そのものを辞めた。

弁当箱は戻らなかった。家では叱られ、新しいものは買ってもらえず、しばらくはタッパーで済ませた。そのくだらなさに、場は少しだけ和んだ。だが彼の目は笑っていなかった。

妙なのは、その後だ。あの谷から、獣の姿が消えた。鹿も猿も、狸も。翌週からぱったりと。

彼は言わない。だが私は考える。あれは獣を殺していたのか。それとも、獣の側だったのか。棒で叩いていたのは死骸ではなく、何か別のものだったのか。

そしてもう一つ。弁当箱を忘れたという事実だ。あの男が、本当に置き忘れるだろうか。忘れたのではなく、戻らされただけではないのか。

今も谷を渡る風に、ときどき混じる。「なああああ」という、意味のない音。意味がないはずの音が、なぜかこちらを呼ぶ。

[出典:304 名前:ノブオ ◆x.v8new4BM [sage] :04/10/01 19:58:18 ID:pUeNCmB3]

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