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短編 r+ 洒落にならない怖い話

橋を渡っていない rw+4,590-0415

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俺は昔から、一人で出かけるのが好きだった。

休日になると、行き先も決めずに電車に乗る。知らない駅で降りて、適当に歩く。誰かに予定を合わせなくていいのが気楽だったし、見知らぬ町の空気に混じっていると、自分まで少し別の人間になれた気がした。

その日も、何日か休みが続いて手持ち無沙汰になり、ふと思い立って温泉へ行くことにした。観光バスで行けば早いのはわかっていたが、それでは最初から終わりまで用意された時間をなぞるだけだ。せっかくなら遠回りして行きたかった。だから電車を何本も乗り継ぎ、山あいの温泉地を目指した。

降りた駅は、思っていた以上に寂れていた。

改札は簡素で、駅員の姿もない。ホームの端のベンチには雪がうっすら積もり、足跡もなかった。降りたのは俺一人で、電車が去ると、音まで一緒に持っていかれたように静かになった。

そこから旅館までは歩いて一時間ほどだと、事前に調べてあった。雪は降ったりやんだりで、空は白く低く垂れ込めている。道の両脇には、閉まったままの土産物屋や、窓の暗い民家がぽつぽつ続き、しばらく歩いても車一台通らなかった。

三十分ほど歩いた頃だった。

前方の歩道の、道を挟んだ向こう側に、女が立っているのが見えた。

背中をこちらに向けたまま、じっと動かない。道端の何かを見ているようにも見えたが、足元には何もない。声をかける距離ではなかったし、そもそも、この寒さの中で立ち尽くしていること自体が妙だった。

服装が、やけに目についた。

茶色のパーマが肩のあたりで膨らみ、上着もスカートも茶系なのに、その布地には赤や緑の柄が散っていた。冬の山道には不釣り合いなほど色が多い。しかも薄着だった。コートも手袋もなく、雪の降る道にそのまま置かれた紙人形みたいに見えた。

変だとは思ったが、関わる理由もない。俺は視線を外し、そのまま歩いた。すれ違う時に横目で見たが、やはり動かなかった。顔は見えなかった。

そのまましばらく行くと、道は緩やかに下って、大きめの車道に合流した。旅館はこの先のはずだった。人の気配が戻ってくるかと思ったが、相変わらず静かなままで、ただ自分の足音だけがやけに響いた。

前方に、人影が見えた。

車道の端を、こちらへ向かって歩いてくる。頭を少し垂れ、腕も振らず、足だけをゆっくり前に出している。

女だった。

一瞬、別人かと思った。だが服の色でわかった。茶色の上着に、赤と緑の柄。さっき見たあの女だ。

足が止まった。

おかしい、と思った。そう思うまでに少し時間がかかった。似た服の人間などいるかもしれない。観光地なのだから、どこかで追い抜いたのかもしれない。自分がぼんやりしていただけかもしれない。そうやって頭の中で説明を並べたが、どれも手応えがなかった。

あの女は駅の近くにいた。俺はそこからずっと歩いてきた。脇道らしい脇道もなかったし、車の音も聞いていない。何より、あの歩き方だ。あれで先にいるはずがなかった。

それでも、俺は少しだけ待った。

近づいてきたら、顔を見ればわかると思った。別人ならそれで済む。こんなことで怖がるのも馬鹿らしい。そう考えて、立ち止まったまま見ていた。

女は、なかなか近づいてこなかった。

いや、近づいてはいる。さっきよりは確実に大きく見える。だが歩幅が異様に小さい。靴底を地面から引き剥がすのを惜しんでいるみたいに、一歩ごとにわずかしか進まない。見ているうちに、あれは歩いているというより、立ったままこちらへ移されてきているのではないかと思えてきた。

そこで急に、駄目だと思った。

理屈ではなく、これ以上見ているとまずいという感じが先に立った。俺は視線を切って歩き出し、それがすぐに早足になり、途中から走った。振り返ったかどうかは覚えていない。旅館の看板が見えた時だけははっきりしている。あの時、自分でもおかしいくらい安心した。

宿は、民家をそのまま大きくしたような小さな旅館だった。古かったが、きちんと手入れされていて、玄関には暖房の熱がこもっていた。女将らしい人が出てきて、普通にチェックインの手続きをしてくれた。その普通さに救われた。

部屋に通されて荷物を置き、すぐ風呂へ向かった。熱い湯に浸かっていると、体の強張りがほどけていった。考えてみれば、疲れていただけかもしれない。見慣れない土地で、人の少ない道を長く歩けば、変な気分にもなる。そういうことにしてしまいたかった。

夕食を食べて部屋へ戻る頃には、少し笑える気すらしていた。布団に入り、電気を消す。外は無音で、窓の向こうだけが白く明るい。雪が積もっているのだろうと思った。

しばらくして、目が覚めた。

何かの音がした気がした。

時計を見ると、三時を少し回ったところだった。旅館は静まり返っている。配管の音か、風か、そういうものだろうと思って耳を澄ませた。

また、音がした。

雪道を歩く時の、きゅっ、きゅっ、という鈍い音だった。

窓の外から聞こえる。

この部屋は二階だった。下は庭とも駐車場ともつかない空き地で、夜は誰も歩くような場所ではない。ましてこんな時間に。

音は途切れ途切れに続いた。ひどくゆっくりで、一定でもない。二歩ぶん鳴って、しばらく止む。また一歩だけ鳴る。まるで、どこまで来たか確かめながら進んでいるみたいだった。

嫌な汗が出た。

布団をかぶってやり過ごすつもりだったが、次の音がやけに近く聞こえたところで耐えきれなくなった。枕元の電気をつけ、窓のほうを見た。障子が閉まっている。開けなければ見えない。

見たくないと思った。

思ったのに、なぜか、見たほうがましな気もした。見えないまま近づかれるほうが嫌だった。

障子を少しだけずらした。窓ガラスの向こうは、白かった。庭の雪がぼんやり光を返している。その端に、色があった。

茶色に、赤と緑。

反射的に障子を閉めた。

息が上がって、自分で自分の喉が鳴るのがわかった。見間違いかもしれないと思った。木の枝か、干してある何かかもしれない。だが、この旅館の庭に、あんな色のものがあるはずがないとも思った。

その夜は、そのまま朝まで起きていた。音がまたしたかどうかは、もう覚えていない。耳を塞いでいた時間もあったし、いつの間にか窓のほうを見ないように体ごと向きを変えていた時間もあった。

明るくなってから障子を開けると、庭には何もなかった。

足跡だけが残っていた。

雪の上を、門のほうから真っすぐこちらへ来て、窓の下で止まっている。そこから先はない。戻った跡もなかった。

女将に聞こうかと思ったが、やめた。こんな話をしても、まともに取り合われない気がしたし、何より、口にした瞬間に本当に昨夜のことになってしまいそうだった。

本来なら、もう少し温泉街を歩いてから帰るつもりだった。だがその気は完全になくなっていた。朝食だけ済ませて、最初のバスで駅へ向かうことにした。

バスはほとんど空いていた。暖房が強く、窓は少し曇っていた。俺は前のほうの席に座り、発車してからもずっと外を見ていた。見たくなかったが、目を離している間に何かが立っているほうが嫌だった。

例の道に差しかかった時、前の席にいた子供が、窓に顔を寄せて言った。

「ねえ、あの人、寒くないのかな」

母親らしい女が「どの人」と聞く。

「ほら、すごい服の人」

俺もそちらを見た。

歩道に、女が立っていた。

今度は背を向けていなかった。だが顔は見えなかった。髪が垂れて隠れていたからではない。ただ、窓越しに見ているはずなのに、そこだけ焦点が合わないみたいにぼやけていて、目鼻の位置がどうしても拾えなかった。

服だけがはっきりしていた。茶色の布地に散った赤と緑。その色だけが、冬の景色から切り抜かれたみたいに浮いていた。

バスはそのまま通り過ぎた。俺は振り向かなかった。

駅に着いて、電車に乗って、昼過ぎには家に戻った。途中、何度も窓に自分の顔が映ったが、そのたびに少しだけ安心した。自分がちゃんとこちら側にいると確かめるみたいに見ていたんだと思う。

それからしばらくして、あの温泉地の名前を思い出して地図で見返したことがある。

駅から旅館までの道を確認していて、途中で手が止まった。

最初に女を見た場所から、あとで前から歩いてきた場所までは、道が繋がっていなかった。

俺は一本道を歩いたつもりでいたが、実際には途中に分岐があった。車道へ出るには、古い橋を渡って、川向こうの道へ入らなければならない。俺はその橋を渡っていない。地図を何度見てもそうだった。

見落としたのかとも思った。だが、橋を渡っていたなら覚えているはずだった。川を越える時には景色が開けるし、何より冬の山の川は目を引く。

結局、あの日、俺がどこを歩いていたのか、今でもよくわからない。

ただ一つだけ、たまに思い出して気分が悪くなることがある。

最初に女を見た時、あいつは背中を向けて立っていた。顔は見ていない。前から歩いてきた時も、うつむいていて結局見えていない。バスの窓越しでも、顔だけは曖昧だった。

なのに俺は、帰ってきてから何度も思い返すたび、あの女がずっと、こっちを見ていた気がする。

(了)

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