三年前のことだ。
当時、俺はキャバクラでボーイをしていた。派手な照明、笑顔の女の子、札束の匂い。だが、客の視線が俺たちに向くことはない。灰皿を替え、氷を運び、酒を注ぐ。邪魔にならない位置に立ち、声を出さず、記憶にも残らない存在。それがボーイだった。
店には色々な人間が流れ着く。元ホスト、元サラリーマン、元ヤクザ。理由は違っても、居場所を失った点だけは同じだ。だが長くは続かない。気づけば辞め、消え、誰も名前を覚えていない。俺は運良く、四か月目に入っていた。
その夜、ひとりの新規客が来た。五十前後の男で、古びた背広を着ていた。場違いなほど静かで、妙に落ち着いた雰囲気だった。豪快さも下心もなく、ただ席に座って酒を飲んでいる。
奇妙だったのは、誰も隣につかないことだ。フリーで入れば女の子が回される。それが店の流れなのに、その男は一時間近く、一人でグラスを傾けていた。
カウンターに聞くと、最初から「女性はいらない」と言ったらしい。ただ、ここで飲みたいと。
黒服が肩をすくめて言った。「様子見てこいよ」
しばらくして、男は俺を指名した。ボーイの場内指名は珍しいが、前例がないわけではない。そうなれば俺は仕事を外れ、客の隣に座る。
グラスを挟んで、取り留めのない話をした。天気、酒、昔の仕事。男はよく笑ったが、目だけが笑っていなかった。笑顔が遅れてついてくるような、妙な間があった。
話題が切れかけ、俺は軽い気持ちで聞いてしまった。
「どうして、女の子をつけなかったんですか」
男はグラスを置き、しばらく黙った。店の音が遠くなった気がした。
「娘がね、ここで働いていたんだ」
胸の奥がひやりとした。家族に黙って夜の仕事をする女の話は珍しくない。源氏名なら足取りは追えない。そういう話だと思った。
男は続けた。
「死んだんだよ」
その一言で、空気が変わった。酒の味が消え、喉が張りついた。
「薬に溺れてな。骨と皮みたいになって」
男は淡々と話した。誰かを責める口調ではない。ただ、事実を並べているようだった。
「娘の周りを調べた。最後に通っていた場所として、この店の名前が出てきた」
俺は何も言えなかった。男の視線が、じっと俺に向けられていた。
「だから、ここに来た」
復讐という言葉が浮かんだが、口には出せなかった。男は頷いた。
「そのつもりだった」
バッグに手を伸ばし、銀色の刃物を取り出した。包丁だった。刃が店の光を反射した。

心臓の音が耳の中で鳴り続ける。だが男は、それをただ見せただけで、すぐにしまった。
「もういい」
そう言って、男は小さく息を吐いた。
「さっき、娘に会えたから」
意味が分からなかった。俺は何もしていない。隣に座って、話を聞いただけだ。
男は微笑んだ。その笑みを見た瞬間、背中を冷たいものが撫でた。
「笑っていた。昔と同じだった」
会計を済ませ、男は席を立った。出口へ向かう背中を、俺は見送ることしかできなかった。
別れ際、男は振り返って言った。
「本気だったんだな。……なら、それでいい」
その言葉が、耳の奥に残った。
娘。
なぜ、その言葉を俺に向けたのか。
その夜の後、店で鏡を見るのが嫌になった。理由は分からない。ただ、視線を合わせるのが怖かった。
ほどなくして、俺は店を辞めた。誰にも理由は言わなかった。言葉にできなかった。
あの男がどうなったのかは知らない。ただ、二度と店には来なかった。
今も時々思う。
あの夜、男の目に映っていたのは、誰だったのか。
俺だったのか。
それとも、俺の隣に、誰かが座っていたのか。
考えようとすると、記憶はそこで途切れる。
あの微笑みだけが、はっきりと残っている。
[出典:88: 1:2011/07/18(月) 19:12:38.62 ID:cNhDKNc60]