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中編 r+ 洒落にならない怖い話

イースが見ている rw+3,825-0707

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坂本さんは、中学のころ、ほとんど誰とも口をきかなかった。

口をきかない子だったのではない。きく相手がいなかったのだという。

教室では、机の中に濡れた雑巾を詰められた。上履きはよく片方だけなくなった。給食の時間になると、誰かがわざと椅子を引いた。声を出して怒れば笑われ、黙っていればまた何かをされた。

教師は見ていたと思う、と坂本さんは言った。

「見てないふりが、うまかったんだよ」

家に帰っても、事情は変わらなかった。父親も母親も、それぞれ別の相手のところへ出入りしていて、家には食べかけの弁当と、吸い殻の入った皿だけが残っていた。

ある日の夕方、坂本さんは学校から帰る途中で、そのまま家とは反対の方へ歩いた。

死のうと思ったのだという。

ただ、具体的な方法までは考えていなかった。ロープを買う金もなく、刃物を持ち出す気力もなかった。歩いているうちに、気づけば村外れの森の前に来ていた。

そこは、子どものころから「入るな」と言われていた場所だった。

森の入口には古い縄が何本も張ってあった。色の抜けた札が枝からぶら下がり、風もないのに、紙の端だけがかさかさ鳴っていた。

普段なら近づきもしない。

でもその日は、止める人間がいることのほうが腹立たしかった。

坂本さんは縄をくぐった。

中は、思ったより明るかったそうだ。

木が密に生えているのに、足元だけは見える。道らしい道はない。けれど、どこを歩けばいいのかは、なぜか分かった。

しばらく進むと、円く開けた場所に出た。

切り株がいくつかあり、古い石が半分だけ土に埋まっていた。人の気配はないのに、そこだけ妙に使われている感じがした。

坂本さんは、その場に座り込んだ。

死ぬならここでいいと思った。

それから、眠ってしまった。

目を閉じてすぐ、周りがざわつき始めた。

最初は、教室の音に似ていた。机を引く音。小さな笑い声。ひそひそ話。自分の名前だけが聞こえない悪口。

またか、と思った。

夢の中にまで来るのか、と思った。

けれど、耳を澄ますと少し違った。

「なんだ、あれ」

「入れたのか」

「いやだ」

「持ってくるな」

声は子どもでも大人でもなかった。男でも女でもない。近くにいるのに、耳の外側を撫でるように聞こえた。

坂本さんは、そのとき初めて泣いた。

泣くつもりはなかったという。

ただ、喉の奥から、勝手に声が出た。最初は息のような音だった。それがだんだん大きくなり、叫びに変わった。

誰に向けたものでもなかった。

助けてほしいとも、死にたいとも言えなかった。ただ、これまで飲み込んできたものが、ぜんぶ声になって出た。

森の中で、坂本さんは泣き続けた。

そのあとの記憶はない。

気がつくと、村の大人たちに囲まれていた。

村長。神社の総代。自治会の老人たち。知らない女たち。父親と母親もいた。学校の担任もいた。

そして、坂本さんをいじめていた同級生たちが、少し離れたところに並ばされていた。

中心になっていた男子が、地面に額をつけて泣いていた。

「ごめんなさい、ごめんなさい」

何度もそう言っていた。

坂本さんは、意味が分からなかった。

あとで聞いた話では、その男子は森の入口のところで倒れていたらしい。ほかの何人かも同じだった。全員が同じことを言った。

「あいつの声がする」

授業中にも、風呂に入っていても、布団にもぐっても、耳のすぐ後ろで坂本さんが泣いている、と。

森から坂本さんを連れ出したのは、村で拝み屋のようなことをしていた婆さんだった。いじめの中心だった男子の祖母でもある。

婆さんは、坂本さんの顔を見るなり、深いため息をついた。

「お前、あそこに何を置いてきた」

坂本さんは答えられなかった。

婆さんは、森の方を見たまま言った。

「あそこは、入った者を返さん場所じゃ。返すときは、代わりを取る。なのに、お前は何も置いてこんかった」

それを聞いて、周りの大人たちがざわついた。

婆さんは続けた。

「向こうが嫌がったんじゃ」

その言い方だけは、坂本さんもよく覚えているという。

助かった、と言われたのではなかった。

追い返された、と言われたのだ。

数日後、坂本さんはもう一度、婆さんの家に呼ばれた。

畳の部屋には、村の年寄りが何人か座っていた。誰も坂本さんの顔をまともに見なかった。婆さんだけが、湯呑みを両手で包んだまま、ゆっくり口を開いた。

「伝えるだけ伝えろと言われた」

婆さんはそう前置きした。

「二度と来るな。お前の声は悪い。泣くな。怒るな。歌うな。笑うな。次に入れば、こちらではなく、お前の家から取る」

部屋の中は静かだった。

坂本さんは、意味を聞こうとした。

婆さんは首を振った。

「分からんでええ。あそこは、お前を嫌っておる。それだけ覚えとけ」

それ以来、村の人間は坂本さんに手を出さなくなった。

教師は急に親切になった。両親は家に戻るようになった。いじめていた連中は、廊下で坂本さんを見ると道を開けた。

みんな優しくなったわけではない。

怖がるようになっただけだった。

坂本さんは高校を出ると、すぐ村を離れた。都会で働き、結婚し、子どもも生まれた。村のことは、なるべく話さないようにしていた。

一度だけ、帰ったことがある。

父親が倒れたと連絡があり、妻と五歳の娘を連れて車で村へ向かった。病院へ行く途中、どうしてもあの森の前を通らなければならなかった。

森は、昔より小さく見えた。

縄も札も新しくなっていた。誰かが手入れしているのだと思った。

車が入口の前に差しかかったとき、後部座席の娘が急に泣き出した。

火がついたような泣き方だった。

妻が抱き寄せても、何を聞いても、娘は森の方を指さして首を振った。

「イースがいる」

坂本さんは、ブレーキを踏んだ。

「誰?」

妻が聞いた。

娘は泣きながら言った。

「パパのまねしてる人。こっち見てる」

坂本さんは振り返らなかった。

そのまま車を出した。

父親には会わず、病院にも寄らず、村を出た。それから二度と帰っていない。

坂本さんは今でも、自分には霊感なんてないと言う。何かを見たことも、聞いたこともない。あの森で何が起きたのかも、結局分からない。

ただ、一つだけ、どうしても忘れられないことがあるらしい。

娘が言った「イース」という言葉だ。

そんな名前の人間を、坂本さんは知らない。

けれど、あの森から帰った日からしばらく、いじめていた同級生たちは、坂本さんのことをそう呼んでいた。

本人の前ではなく、陰で。

坂本さん、という名前を出すのが怖かったからだという。

それを娘に教えた者は、誰もいない。

[出典:730: 2011/08/27(土) 18:03:29.77 ID:eKz1w9J/0]

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