坂本さんは、中学のころ、ほとんど誰とも口をきかなかった。
口をきかない子だったのではない。きく相手がいなかったのだという。
教室では、机の中に濡れた雑巾を詰められた。上履きはよく片方だけなくなった。給食の時間になると、誰かがわざと椅子を引いた。声を出して怒れば笑われ、黙っていればまた何かをされた。
教師は見ていたと思う、と坂本さんは言った。
「見てないふりが、うまかったんだよ」
家に帰っても、事情は変わらなかった。父親も母親も、それぞれ別の相手のところへ出入りしていて、家には食べかけの弁当と、吸い殻の入った皿だけが残っていた。
ある日の夕方、坂本さんは学校から帰る途中で、そのまま家とは反対の方へ歩いた。
死のうと思ったのだという。
ただ、具体的な方法までは考えていなかった。ロープを買う金もなく、刃物を持ち出す気力もなかった。歩いているうちに、気づけば村外れの森の前に来ていた。
そこは、子どものころから「入るな」と言われていた場所だった。
森の入口には古い縄が何本も張ってあった。色の抜けた札が枝からぶら下がり、風もないのに、紙の端だけがかさかさ鳴っていた。
普段なら近づきもしない。
でもその日は、止める人間がいることのほうが腹立たしかった。
坂本さんは縄をくぐった。
中は、思ったより明るかったそうだ。
木が密に生えているのに、足元だけは見える。道らしい道はない。けれど、どこを歩けばいいのかは、なぜか分かった。
しばらく進むと、円く開けた場所に出た。
切り株がいくつかあり、古い石が半分だけ土に埋まっていた。人の気配はないのに、そこだけ妙に使われている感じがした。
坂本さんは、その場に座り込んだ。
死ぬならここでいいと思った。
それから、眠ってしまった。
目を閉じてすぐ、周りがざわつき始めた。
最初は、教室の音に似ていた。机を引く音。小さな笑い声。ひそひそ話。自分の名前だけが聞こえない悪口。
またか、と思った。
夢の中にまで来るのか、と思った。
けれど、耳を澄ますと少し違った。
「なんだ、あれ」
「入れたのか」
「いやだ」
「持ってくるな」
声は子どもでも大人でもなかった。男でも女でもない。近くにいるのに、耳の外側を撫でるように聞こえた。
坂本さんは、そのとき初めて泣いた。
泣くつもりはなかったという。
ただ、喉の奥から、勝手に声が出た。最初は息のような音だった。それがだんだん大きくなり、叫びに変わった。
誰に向けたものでもなかった。
助けてほしいとも、死にたいとも言えなかった。ただ、これまで飲み込んできたものが、ぜんぶ声になって出た。
森の中で、坂本さんは泣き続けた。
そのあとの記憶はない。
気がつくと、村の大人たちに囲まれていた。
村長。神社の総代。自治会の老人たち。知らない女たち。父親と母親もいた。学校の担任もいた。
そして、坂本さんをいじめていた同級生たちが、少し離れたところに並ばされていた。
中心になっていた男子が、地面に額をつけて泣いていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
何度もそう言っていた。
坂本さんは、意味が分からなかった。
あとで聞いた話では、その男子は森の入口のところで倒れていたらしい。ほかの何人かも同じだった。全員が同じことを言った。
「あいつの声がする」
授業中にも、風呂に入っていても、布団にもぐっても、耳のすぐ後ろで坂本さんが泣いている、と。
森から坂本さんを連れ出したのは、村で拝み屋のようなことをしていた婆さんだった。いじめの中心だった男子の祖母でもある。
婆さんは、坂本さんの顔を見るなり、深いため息をついた。
「お前、あそこに何を置いてきた」
坂本さんは答えられなかった。
婆さんは、森の方を見たまま言った。
「あそこは、入った者を返さん場所じゃ。返すときは、代わりを取る。なのに、お前は何も置いてこんかった」
それを聞いて、周りの大人たちがざわついた。
婆さんは続けた。
「向こうが嫌がったんじゃ」
その言い方だけは、坂本さんもよく覚えているという。
助かった、と言われたのではなかった。
追い返された、と言われたのだ。
数日後、坂本さんはもう一度、婆さんの家に呼ばれた。
畳の部屋には、村の年寄りが何人か座っていた。誰も坂本さんの顔をまともに見なかった。婆さんだけが、湯呑みを両手で包んだまま、ゆっくり口を開いた。
「伝えるだけ伝えろと言われた」
婆さんはそう前置きした。
「二度と来るな。お前の声は悪い。泣くな。怒るな。歌うな。笑うな。次に入れば、こちらではなく、お前の家から取る」
部屋の中は静かだった。
坂本さんは、意味を聞こうとした。
婆さんは首を振った。
「分からんでええ。あそこは、お前を嫌っておる。それだけ覚えとけ」
それ以来、村の人間は坂本さんに手を出さなくなった。
教師は急に親切になった。両親は家に戻るようになった。いじめていた連中は、廊下で坂本さんを見ると道を開けた。
みんな優しくなったわけではない。
怖がるようになっただけだった。
坂本さんは高校を出ると、すぐ村を離れた。都会で働き、結婚し、子どもも生まれた。村のことは、なるべく話さないようにしていた。
一度だけ、帰ったことがある。
父親が倒れたと連絡があり、妻と五歳の娘を連れて車で村へ向かった。病院へ行く途中、どうしてもあの森の前を通らなければならなかった。
森は、昔より小さく見えた。
縄も札も新しくなっていた。誰かが手入れしているのだと思った。
車が入口の前に差しかかったとき、後部座席の娘が急に泣き出した。
火がついたような泣き方だった。
妻が抱き寄せても、何を聞いても、娘は森の方を指さして首を振った。
「イースがいる」
坂本さんは、ブレーキを踏んだ。
「誰?」
妻が聞いた。
娘は泣きながら言った。
「パパのまねしてる人。こっち見てる」
坂本さんは振り返らなかった。
そのまま車を出した。
父親には会わず、病院にも寄らず、村を出た。それから二度と帰っていない。
坂本さんは今でも、自分には霊感なんてないと言う。何かを見たことも、聞いたこともない。あの森で何が起きたのかも、結局分からない。
ただ、一つだけ、どうしても忘れられないことがあるらしい。
娘が言った「イース」という言葉だ。
そんな名前の人間を、坂本さんは知らない。
けれど、あの森から帰った日からしばらく、いじめていた同級生たちは、坂本さんのことをそう呼んでいた。
本人の前ではなく、陰で。
坂本さん、という名前を出すのが怖かったからだという。
それを娘に教えた者は、誰もいない。
[出典:730: 2011/08/27(土) 18:03:29.77 ID:eKz1w9J/0]