僕は山奥の小さな村で育った。
夜になると、獣の声と風の音しか聞こえない場所だ。街灯はほとんどなく、家々の窓明かりだけが、闇の中に点々と浮かんでいた。
子供の頃、兄と姉にはそれぞれ部屋があったが、僕だけは両親と同じ部屋で寝ていた。低学年のうちは気にもならなかったが、成長するにつれて、それがひどく惨めに思えるようになった。
二階には三つ部屋がある。兄と姉が一つずつ使い、残りの角部屋だけが空いていた。日当たりがよく、風通しもいい。なのに、雨戸は閉め切られ、ほとんど使われていなかった。
そこを使わせてほしいと母に頼んだとき、母は初めて見るほど強い口調で言った。
「駄目」
理由を聞いても答えない。ただ、その部屋の話題になると、母の様子は明らかにおかしかった。
どうしても納得できず、役場勤めの父に頼んだ。父は少し考えたあと、あっさり言った。
「いいぞ」
その瞬間、背後から母が飛び出してきた。
「あなた、その部屋だけは駄目です。どうなってもいいんですか」
父は母を睨みつけ、短く言い切った。
「いつまでも空けておく方が不自然だ」
それ以上、母は何も言わなかった。
次の休日、家族総出で角部屋を片付けた。窓を開けると、長く閉じ込められていた空気が一気に吐き出され、湿った匂いが鼻を刺した。荷物はほとんどなく、ただ、空間だけが残っていた。
その夜、母が僕の部屋に来た。何か言いかけて、やめたような沈黙のあと、小さな布のお守りを渡された。

「何かあったら、これを握りなさい」
理由は聞けなかった。
最初の数日は、何も起きなかった。
だが、村で葬式があった日の夜、異変は起きた。
眠っていると、窓のカーテン越しに、青白い光が滲んだ。車のライトではない。消えず、揺れず、そこに在り続けていた。
影が浮かび上がる。
木ではない。人でもない。
ただ、人の形に近づいていく何か。
鈴の音がした。
気づいたときには、それは窓の外に立っていた。
声がした。
懐かしい響きだった。
「久しぶりだな」
名前を呼ばれ、体が固まった。近づいてくる気配とともに、部屋の空気が冷え、息が詰まった。
「一緒に行こう」
腕を掴まれた瞬間、全身に強い衝撃が走った。声は出ず、視界が暗くなる。必死に机にしがみつき、引き出しを開けて、お守りを掴んだ。
そのとき、襖が開いた。
母が立っていた。
母は何も説明せず、ただ、低い声で何かを唱え続けていた。青白い光が揺れ、影は後ずさりし、やがて壁の中へ溶けるように消えた。
翌朝、腕にははっきりと指の跡が残っていた。
それから数日後、庭に奇妙な建物が作られた。前後に抜けられる、小さな堂だった。仏像はなく、札を収めるための溝だけがあった。さらに、庭から裏手にかけて、家を避けるように石が並べられた。
それ以降、何も起きなくなった。
父は試すように、家族全員を角部屋で寝かせた。何も現れなかった。
それでも、僕は二度とその部屋で眠れなかった。
角部屋は、また使われなくなった。
後になって知った。
あの部屋は、かつて両親の寝室だったということを。
母は言った。
「通り道に立ち止まってはいけないの」
今も庭の堂は残っている。
村で誰かが亡くなるたび、夜の角部屋を思い出す。
あの場所は、今も空いている。
[出典:517 :本当にあった怖い名無し:2005/10/02(日) 03:41:45 ID:2bMdqCH20]