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【柳田國男】山の人生:12【青空文庫・ゆっくり朗読】

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一二 大和尚に化けて廻国せし狸のこと

話が山から出てきたついでに、おかしな先例を今少し列挙して見たい。関東各府県の村の旧家には、狐や狸の書いた書画というものがおりおり伝わり、これに伴うて必ず不思議な話が残っている。たいていは旅の僧侶そうりょに化けて、その土地にしばらくとどまっていたというのである。どうしてその僧の狸であることを知ったかといえば、後日少しくかけ離れた里で、いぬ噛殺かみころされたという話だからというものと、その僧が滞在をしている間、食事と入浴に人のいるのをひどくいやがる。そっとのぞいてみたら食物をぜんの上にあけて、口をつけて食べていたからというのがあり、また湯殿ゆどの湯気ゆげの中から、だらりと長い尻尾しっぽが見えたからというのもある。書や画は多くは乱暴な、しかも活溌かっぱつな走り書きであった。
この化の皮の露れた原因として、狗に殺されたはいかにも実際らしくない。もし噛まれて死んでいたものの正体が狸であれば、果してあの和尚か否かがわからず、和尚の姿で死んでおれば、狸とはなおさらいわれない。要するに山芋やまいもうなぎすずめはまぐりとの関係も同じで、立会たちあいのうえで甲から乙へ変化するところを見届けぬかぎりは、真の調書は作成しえなかった道理である。おそらくはじつは和尚の挙動、或いはその内々の白状が、この説の基礎をなしたものであったろうと思う。

いわゆる狸和尚の話は、鈴木重光君の『相州内郷うちごう村話』の数ページが、最も新しくかつ注意深い報告である。同君の居村附近、すなわち小仏峠こぼとけとうげを中心とした武相甲の多くの村には、天明年間にむじなが鎌倉建長寺の御使僧ごしそうに化けたという話とともに、描いて残した書画が多く分布している。鈴木君が自身で見たものは、東京府南多摩みなみたま加住かすみ大字宮下にある白沢はくたくの図、神奈川県津久井つくい千木良ちぎら村に伝わる布袋ほてい川渡りの図であったが、後者は布袋らしく福々しいところは少しもなく、なんとなくむじなに似た顔にできていた。書は千木良の隣の小原町の本陣、清水氏にも一枚あった。形は字らしいが何という字かわからなかった。それよりも更に奇怪きっかいなことは、この僧が狗に噛み殺されて、貉の正体をあらわしたと伝うる場処が、或いは書画の数よりも多いかと思うくらい方々の村にあることである。また建長寺の方でもこの事件は否定せぬそうだ。ただし貉が勧化かんげの使僧をみ殺して、代ってこれに化けたというかちかち山式風説は認めず、中途で遷化せんげした和尚の姿を借りて、山門再建の遺志を果したという他の一説の方をっており、現に寺にもその貉の書いたものが、二枚もしまってあるというのは、すこぶる次に述べる文福茶釜ぶんぶくちゃがまの話と似ている。
右と同様の話はなおたくさんあるが、今記憶する二つ三つを挙げて見ると、『静岡県安倍あべ郡誌』には、この郡大里村大字下島の長田氏には、これも建長寺の和尚に化けて、京に上ると称して堂々と行列を立て、乗り込んできたという貉の話あり、その書が今に残っている。横物の一軸いちじくに「※(「りっしんべん+里」、第3水準1-84-49)」というような変な字が一字書いてある。ムジナすなわち狸だというかすかな暗示とも解せられる。隣区西脇の庄屋萩原氏にも宿泊し、かの家にも一枚あったがそれは紛失した。そうしてやはりのちに安倍川の川原で、犬に喰殺されたと伝えられる。信州下伊那しもいな泰阜やすおか村の温田ぬくたというところにも、狸のえがくという絵像のあることが、『伝説の下伊那』という書に報ぜられてある。人の顔に獣の体を取りつけたような不思議な画姿えすがたであったという。ただしこれは和尚ではなくて、よしある京都の公家くげという触込ふれこみで、遠州路から山坂を越えて、この村に遣ってきて泊った。出入ともに駕籠かごの戸を開かず、家の者も見ることをえなかったが、翌朝出発の時に礼だと称して、こんな物を置いて去ったという。この狸はそれから柿野という部落に入って同じことをくりかえし、だんだんと天竜筋てんりゅうすじを上って行くうちに、上穂うわぼの光善寺の飼犬に正体を見現わされ、咬み殺されてしまったというが、その光善寺の犬は例のヘイボウ太郎で、遠州見附みつけ人身御供ひとみごくう問題を解決した物語の主人公だから、どこまでが昔話か結局は不明に帰するのである。
蕉斎筆記しょうさいひっき』にはまた次のような話が出ている。三州亀浜かめはまの鳴田又兵衛という富人の家へ、安永の初年ころに、京の大徳寺の和尚だというのがただ一人でふらりと遊びにきて、物の三十日ほども滞在し、頼まれてがくだの一行物だのを、いくらともなく書いてかえった。あとから挨拶あいさつの状を京にのぼせると、大徳寺の方では和尚一向にそんな覚えがないとある。ただしもとこの寺に一匹の狸がいて、夜分縁先えんさきにきて法談を聴聞ちょうもんしていたが、のちに和尚の机の上から石印を盗んでいずれへか往ってしまった。其奴そやつではなかろうかといっていると、果して後日の噂には江州大津の宿で、駕籠を乗替えようとして犬に喰殺された狸だか和尚だかが、その石印を所持していたそうである。三州の方には屏風びょうぶが一つ残っていた。見事な筆蹟であったという。しかしこれだけの材料を綜合して、狸が書家であったと断定することは容易でない。やはり最初から、旅僧の中にはまれには狸ありという風説が、下染したぞめをなしている必要はあったのである。狐の書という話も例は多いが、『塩尻しおじり(帝国書院本)の巻六十八および七十五にも、これと半分ほど似た記事がある。美濃安八あはち春近はるちかの井上氏に、伝えた書というのがそれであって、その模写を見ると鳥啼花落ちょうていからくと立派に書いて、下に梅菴ばいあんと署名してある、本名は板益亥正、年久しく井上家の後園に住む老狐であって、しばしば人間の形をもって来訪した。筆法以外医道の心得こころえもあり、またく禅を談じたが、一旦中絶して行方が知れず、どうした事かと思っていると、或る時村の者が京に上るみちで、これも大津の町で偶然にこの梅菴に行逢ゆきあうた。もう年を取って死ぬ日が近くなった。日ごろ親しくした井上氏と、再会の期もないのは悲しいと落涙し一筆したためてこれを托し、なお井上が子供にもよく孝行をして学問を怠らぬようにと、伝言を頼んで別れたそうである。梅菴は野狐にして僧、長斎一食なりとあって、何だか支那の小説にでもありそうな話だが、現に鳥啼花落がのこっているのだからしかたがない。しかし『宮川舎漫筆みやがわのやまんぴつ』巻三には、早同じ話に若干の相違を伝え、公表せられた狐の書というものにも、野干坊元正やかんぼうげんせい麗々れいれいと署名がしてあった。
実際この類の狐になると、果して人に化けたのやら、もしくは人の形になりきっているのやら、その境目さかいめがもうはっきりしてはいなかった。それ故にかえって本人の方から、たとえ露骨には名乗らぬまでも、やや自分の狐であることを、暗示する必要があったと見える。空菴くうあんという狐が自ら狐の一字を書したことは『一話一言いちわいちげん』にあり、また駿州安倍郡の貉は狸という字に紛わしい書を遺した。しかも他の一方においては、人が狐に化けたという話も近世は存外に多かった。物馴ものなれた旅人が狐の尻尾を腰さげにして、わざとちらちらと合羽かっぱの下から見せ、駕籠屋かごや馬方うまかた・宿屋の亭主に、尊敬心を起こさせたという噂は興味をもって迎えられ、甚だしきはあべこべに、狐をだましたという昔話さえできている。だから私は村々の狸和尚が、いずれも狸の贋物にせものであったとはもちろん言わぬが、少なくともいかにしてこれを発見したかは、考えてみる必要があると思うのである。
狐狸の大多数が諸国を旅行する際に、武士にも商人にもあまり化けたがらず、たいてい和尚や御使僧になってきたのもいわくがあろう。上州茂林寺もりんじの文福茶釜を始めとしてかつて異僧が住してそれがじつは狸であり、いろいろと寺のために働いて、のちにいなくなったというのみならず、何か末世の手証てあかしとなるものを、遺して往ったという例はたくさんにある。禅宗の和尚たちはこれを怪奇としてしりぞけず、むしろ意味ありげに語り伝えるのが普通であった。会津の或る寺でも守鶴西堂しゅかくせいどう天目てんもく什宝じゅうほうとし、稀有けうの長寿を説くこと常陸坊海尊同様であったが、その守鶴もやはり何かのついでに微々として笑って、すこぶる自己のじつは狸なることを、否定しなかったらしい形がある。東京の近くでは府中の安養寺あんようじに、かつて三世の住職に随逐ずいちくした筑紫三位という狸があって、それが書いたという寺起立の由来記を存し、横浜在の関村の東樹院とうじゅいんには、狸が描くと称する渡唐天神の像もあった(『新篇風土記稿』二十四および二十八)。建長寺ばかりではないのである。
それからまた有用無害の狐狸がいたという話は、今では多く寺々の管轄の下に帰し、かつは仏徳の如是畜生にょぜちくしょうに及んだことを証しているようだが、最初はその全部が僧たちの親切に基づいた因縁話でもなかったらしい。今日の思想からはんずれば、狐はこれ人民の敵で、人は汲々乎きゅうきゅうことしてその害を避くるにもっぱらであるけれども、祭った時代にはいろいろの好意を示し、また必ずしも仏法の軌範の内に跼蹐きょくせきしていなかった。例えば越後の或る山村では、正月十五日のよいに山から大きな声を出して、年の吉凶を予言し、または住民の行為を批判した。『東備郡村誌』によれば、岡山市外の円城村に老狸あり、人に化けて民間に往来し、く人の言語を学んでしばしば附近の古城の話をした。その物語をかんと欲する者、食を与えてこれをう時んば、一室をとざしてその内に入り、諄々じゅんじゅんとして人のごとくに談じた。しこうして人を害することなし、もっとも怪獣なりとある。三河みかわ長篠ながしののおとら狐に至っては、近世その暴虐ことに甚だしく住民はことごとく切歯扼腕せっしやくわんしているのだが、人にくときは必ず鳶巣城とびのすじょうの故事を談じ、なお進んでは山本勘助の智謀、川中島の合戦のごとき、今日の歴史家が或いは小幡勘兵衛の駄法螺だぼらだろうと考えている物語までを、事も細かに叙述するを常とした。単に人を悩ます者がおとらであり、おとらはとし久しき狐なることを証明するためならば、それほど力を入れずともよいのであった。おそらくはこれも昔はその話を聴くために、狐を招いてきてもらった名残であって、同時にまた諸国の狸和尚、ないしは常陸坊・八百比丘尼の徒が、或いは自分もまた多くの聴衆と同じく、憑いた生霊、憑いた神と同化してしまって、荘子そうじの夢のわれ蝴蝶こちょうかを、差別しえない境遇にあった結果ではないかを考えしめる。

近ごろでも新聞に毎々出てくるごとく、医者の少しく首をひねるような病人は、家族や親類がすぐに狐憑きにしてしまう風が、地方によってはまだ盛んであるが、なんぼ愚夫愚婦でも理由もなしに、そんな重大なる断定をするはずがない。たいていの場合には今までも似たような先例があるから、もしか例のではないかと、以心伝心に内々一同が警戒していると、果せるかな今日は昨日よりも、一層病人の挙動が疑わしくなり、まず食物の好みの小豆飯あずきめし油揚あぶらあげから、次には手つき眼つきや横着なそぶりとなり、此方でも「こんちきしょう」などというまでに激昂げっこうするころは、本人もまた堂々と何山の稲荷いなりだと、名を名乗るほどに進んでくるので、要するに双方の相持あいもちで、もしこれを精神病の一つとするならば、患者は決して病人一人ではないのだ。狸の旅僧のごときも多勢で寄ってたかって、化けたと自ら信ぜずにはおられぬように逆にただの坊主を誘導したものかも知れぬ。
佐渡では新羅しらぎ王書と署名した奇異なる草体の書が、多くの家に蔵せられ、私もそのいくつかをみた。古い物ではあるが、もちろん新羅という国が滅びてのち、すでに四五百年以上もしてからの作に相異ない。天文年間に漂着したともいい、或いはもっと後のことともいっている。とにかくかつて他処からきた実在の異人であった。のちには土地の語を話し、土地の人になってしまった。書ばかり書いている変な人だったというが、現にその子孫という家もあって、とにかくに詐欺師さぎしではなかった。自分でも新羅王だと思っており、それをまた周囲の人が少しも疑わなかったために、このようなありうべからざる歴史が成り立ったものである。
神隠しの少年の後日譚、彼らの宗教的行動が、近世の神道説に若干の影響を与えたのは怪しむに足らぬ。上古以来の民間の信仰においては、神隠しはまた一つの肝要なる霊界との交通方法であって、我々の無窮に対する考えかたは、終始この手続を通して進化してきたものであった。書物からの学問がようやく盛んなるにつれて、この方面は不当に馬鹿にせられた。そうして何が故に今なお我々の村の生活に、こんな風習が遺っていたのかを、説明することすらもできなくなろうとしている。それが自分のこの書物を書いて見たくなった理由である。

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