大学時代のことだ。今でも思い出すたび、背中の芯が冷える。
当時、友人の迫田に彼女ができた。遠距離恋愛で、電話やメールで常に繋がっているらしく、本人は幸せを隠しもしなかった。最初は面白半分で聞いていたが、日に日に惚気は濃度を増し、正直うんざりしていた。隣で聞いていた伊藤も同じだったと思う。彼の浮かべる苦笑いは、俺の内心をそのまま映していた。
その夜、午前二時を回っても俺たちは迫田の部屋で酒を飲み続けていた。やがて迫田が先に潰れ、布団に倒れ込む。部屋には小さなスタンドライトだけが点いていて、黄色い光がやけに頼りなかった。取り残された俺と伊藤の間に、妙な沈黙が落ちた。
伊藤が低い声で言った。
「なあ、迫田の携帯から、彼女にイタ電してみねえ?」
最低だと頭では分かっていた。だが酔いと悪ノリが、判断を鈍らせた。俺は何も言わず、枕元に置かれた携帯を手に取った。古い折り畳み式で、ロックもかかっていない。
メールボックスには、二人のやり取りがぎっしり詰まっていた。甘ったるい言葉と絵文字の応酬。笑いを堪えきれず、二人で肩を震わせた。その裏で、胸の奥にざらついた感情が広がっていくのを、俺ははっきり自覚していた。
「もう、かけちゃおうぜ」
伊藤の目が妙に冴えていた。俺は止めなかった。アドレス帳を開き、彼女の名前を選んで発信ボタンを押した。
その瞬間だった。
部屋の中で、けたたましい着信音が鳴り響いた。
一気に酔いが醒めた。俺と伊藤は顔を見合わせ、言葉を失った。
「……お前の携帯か?」
「違う。お前だろ」
「俺じゃない」
三台とも、位置は分かっている。迫田の携帯は俺の手の中。伊藤のはテーブルの上。俺のはポケットにある。それでも、確かにこの部屋で、俺たちが今かけたはずの相手からの着信音が鳴っている。
音を辿ると、迫田の鞄だった。喉が張り付いたように動かないまま、ファスナーを開ける。中から、水色の携帯が現れた。震えながら光っている。
画面には、はっきりと表示されていた。
「着信 迫田」
伊藤が掠れた声で「何だよ……これ」と呟いた。その背後で、寝ているはずの迫田が小さく寝返りを打った。心臓が跳ね上がり、二人とも息を止めた。
その携帯は、どう見ても彼女のものだった。遠く離れた場所にいるはずの彼女の携帯が、なぜここにあるのか。考える余地すらなかった。
着信はやがて止まり、画面は暗くなった。俺たちは無言のまま、発信と着信の履歴をすべて消し、携帯を元の場所に戻した。そのまま夜が明けるまで、誰も眠れなかった。
翌朝、迫田は何事もなかったように「昨日はよく寝た」と笑っていた。俺たちの顔色など、気にも留めていない様子だった。
それから、三人で集まることはなくなった。彼の惚気話を聞くたび、あの水色の携帯が脳裏に浮かび、喉を冷たい手で掴まれる感覚が蘇る。
あれは何だったのか。彼女が携帯を忘れ、迫田が預かっていただけなのか。それなら、なぜ俺たちがかけた瞬間に鳴った。なぜ履歴には、彼女からの着信が一度も残っていなかった。
考えれば考えるほど、背中に冷たいものが這い上がる。
俺はもう、迫田に会いたくない。
彼の鞄の中にあるものを、二度と確かめたくないからだ。
[出典:53 本当にあった怖い名無し 2013/01/20(日) 13:43:04.44 ID:xjNrxpcI0]