016 師匠シリーズ「足音」
子どものころバッタの首をもいだことがある。
もがれた首はキョロキョロと触覚を動かしていたが、胴体のほうもピョンピョンと跳び回り続けた。
怖くなった俺は、首を放り出して逃げだしてしまった。
その記憶がある種のトラウマになっていたが、大学時代にそのことを思い出すような出来事があった。
怖がりのくせに、怖いもの見たさが高じてよく心霊スポットに行った。
俺にオカルトを手ほどきした先輩がいて、俺は師匠と呼び、尊敬したり貶したりしていた。
大学一回生の秋ごろ、その師匠と相当やばいという噂の廃屋に忍び込んだ時のこと。
もとは病院だったというそこには、夜中に誰もいないはずの廊下で足音が聞こえる、という逸話があった。
その話を仕込んできた俺は、師匠が満足するに違いないと楽しみだった。
しかし、「誰もいないはずはないよ。聞いてる人がいるんだから」。
そんな森の中で木を切り倒す話のような揚足取りをされて少しムッとした。
しかるに、カツーン カツーンという音がほんとに響き始めた時には、怖いというより『やった』という感じだった。
師匠の霊感の強さはハンパではないので、『出る』という噂の場所ならまず確実に出る。
それどころか、火のない所にまで煙が立つほどだ。
「しっ」
息を潜めて、師匠と俺は多床室と思しき病室に身を隠した。
真っ暗な廊下の奥から足音が均一なリズムで近づいてくる。
「こどもだ」と師匠が囁いた。
「歩幅で分かる」と続ける。
誰もいないのに足音が聞こえる、なんていう怪奇現象にあって、その足音から足の持ち主を推測する、なんていう発想はさすがというべきか。
やがて二人が隠れている病室の前を足音が。
足音だけが通り過ぎた。もちろん、動くものの影も気配さえもなかった。
ほんとだった。
膝はガクガク震えているが、乗り気でなかった師匠に勝ったような気になって嬉しかった。
ところが、微かな月明かりを頼りに師匠の顔を覗き込むと、蒼白になっている。
「なに、あれ」
俺は心臓が止まりそうになった。
師匠がビビッている。はじめてみた。
俺がどんなヤバイ心霊スポットにでも行けるのは、横で師匠が泰然としてるからだ。
どんだけやばいんだよ!
俺は泣いた。
「逃げよう」と言うので、一も二もなく逃げた。
廃屋から出るまで足音がついて来てるような気がして、生きた心地がしなかった。
ようやく外に出て師匠の愛車に乗り込む。
「一体なんですか」
「わからない」
曰く、足音しか聞こえなかったと。
いや、もともとそういうスポットだからと言ったが、「自分に見えないはずはない」と言い張るのだ。
「あれだけはっきりした音で人間の知覚に働きかける霊が、本当に音だけで存在してるはずはない」と言うのである。
俺は、この人そこまで自分の霊感を自負していたのか、という驚きがあった。
半年ほど経って師匠が言った。
「あの廃病院の足音、覚えてる?」
興奮しているようだ。
「謎が解けたよ。たぶん」
ずっと気になっていて、少しづつあの出来事の背景を調べていたらしい。
「幻肢だと思う」と言う。
あの病院に昔、両足を切断するような事故にあった女の子が入院していたらしい。
その子は幻肢症状をずっと訴えていたそうだ。なくなったはずの足が痒いとかいうあれだ。
その幻の足が、今もあの病院にさまよっているというのだ。
俺は首をもがれたバッタを思い出した。
「こんなの僕もはじめてだ。オカルトは奥が深い」
師匠はやけに嬉しそうだった。
俺は信じられない気分だったが、「その子はその後どうなったんです?」と聞くと、 師匠は冗談のような口調で、冗談としか思えないことを言った。
「昨日殺してきた」
017 師匠シリーズ「夢の鍵を求めて」
大学二回生の夏休み。
オカルトマニアの先輩に「面白いものがあるから、おいで」と言われた。
師匠と仰ぐその人物にそんなことを言われたら行かざるを得ない。
ノコノコと家に向かった。
師匠の下宿はぼろいアパートの一階で、あいかわらず鍵をかけていないドアをノックして入ると、 畳の上に座り込んでなにかをこねくり回している。
トイレットペーパーくらいの大きさの円筒形。金属製の箱のようだ。表面に錆が浮いている。
「その箱が面白いんですか」と聞くと、 「開けたら死ぬらしい」
この人はいっぺん死なないとわからないと思った。
「開けるんですか」
「開けたい。けど開かない」
見ると箱からは小さなボタンのようなでっぱりが全面に出ていて、円筒の上部には鍵穴のようなものもある。
「ボタンを正しい順序で押し込まないとダメらしい」
師匠はそう言って、夢中で箱と格闘していた。
「開けたら、どうして死ぬんですか」
「さあ」
「どこで手に入れたんですか」
「××市の骨董品屋」
「開けたいんですか」
「開けたい。けど開かない」
死ぬトコ見てみてェ。
俺はパズルの類は好きなので、やってみたかったが我慢した。
「ボタンは五十個ある。何個連続で正しく押さないといけないのかわからないけど、音聞いてる限り、だいぶ正解に近づいてる気がする」
「その鍵穴はなんですか」
「そこなんだよ」
師匠はため息をついた。
2重のロックになっていて、最終的には鍵がないと開かないらしい。
「ないんですか」
「いや。セットで手に入れたよ。でも落とした」と悲しそうに言う。
「どこに」と聞くと、「部屋」。
探せばいいでしょ。こんなクソ狭い部屋。
師匠は首を振った。
「拾っちゃったんだよ」
「ハァ?」
意味がわからない。
「だから、ポケットに入れてたのを部屋のどっかに落としてさ。まあいいや、明日探そ、と寝たわけ。その夜、夢の中で玄関に落ちてるのを見つけてさ、拾ったの」
バカかこの人は。
「それで目が覚めて、正夢かもと思うわけ。で、玄関を探したけどない。あれー?と思って、部屋中探したけど出てこない。困ってたら、その日の晩、夢見てたら出てきたのよ。ポケットの中から」
ちょっとゾクっとした。なんだか方向性が怪しくなってきた。
「その次の朝、目が覚めてからポケットを探っても、もちろん鍵なんか入ってない。そこで思った。『夢の中で拾ってしまうんじゃなかった』」
やっぱこぇぇよこの人。
「それからその鍵が、僕の夢の中から出てきてくれない。いつも夢のポケットの中に入ってる。夢の中で鍵を机の引き出しにしまっておいて、目が覚めてから机の引き出しを開けてみたこともあるんだけど、やっぱり入ってない。どうしようもなくて、ちょっと困ってる」
信じられない話をしている。
落とした鍵を夢の中で拾ってしまったから現実から鍵が消滅して、夢の中にしか存在しなくなったというのか。
そして、夢の中から現実へ鍵を戻す方法を模索してると言うのだ。
どう考えてもキチ○ガイっぽい話だが、師匠が言うとあながちそう思えないから怖い。
「あー!また失敗」と言って、師匠は箱を床に置いた。
いい感じだった音がもとに戻ったらしい。
「ボタンのパズルを解いても、鍵がないと開かないんでしょ」と突っ込むと、師匠は気味悪く笑った。
「ところが、わざわざ今日呼んだのは、開ける気満々だからだよ」
なにやら悪寒がして、俺は少し後ずさった。
「どうしても鍵が夢から出てこないなら、思ったんだよ。夢の中でコレ、開けちまえって」
なに?なに?
なにを言ってるのこの人。
「でさ、あとはパズルさえ解ければ開くわけよ」
ちょっと、ちょっと待って。
青ざめる俺をよそに、師匠はジーパンのポケットを探り始めた。
そして………
「この鍵があれば」
その手には錆ついた灰色の鍵が握られていた。
その瞬間、硬質な金属が砕けるような物凄い音がした。
床抜け、世界が暗転して、ワケがわからなくなった。
誰かに肩を揺すられて光が戻った。
師匠だった。
「冗談、冗談」
俺はまだ頭がボーッとしていた。
師匠の手にはまだ鍵が握られている。
「今ので気を失うなんて……」と俺の脇を抱えて起こし、「さすがだ」と言った。やたら嬉しそうだ。
「さっきの鍵の意味が一瞬でわかったんだから、凄いよ。
もっと暗示に掛かりやすい人なら、僕の目の前で消滅してくれたかも知れない」
……俺はなにも言えなかった。
鍵を夢で拾った云々はウソだったらしい。
その日は俺をからかっただけで、結局師匠は箱のパズルを解けなかった。
その箱がどうなったか、その後は知らない。
018 師匠シリーズ「麻雀」
師匠は麻雀が弱い。もちろん麻雀の師匠ではない。
霊感が異常に強い大学の先輩で、オカルト好きの俺は彼と、傍から見ると気色悪いであろう師弟関係を結んでいた。
その師匠であるが、二、三回手合わせしただけでもその実力の程は知れた。
俺は高校時代から友人連中とバカみたいに打ってたので、大学デビュー組とは一味違う新入生として、サークルの先輩たちからウザがられていた。
師匠に勝てる部分があったことが嬉しくてよく麻雀に誘ったが、あまり乗ってきてくれなかった。
弱味を見せたくないらしい。
一回生の夏ごろ、サークルBOXで師匠と同じ院生の先輩とふたりになった。
なんとなく師匠の話になって、俺が師匠の麻雀の弱さの話をすると、先輩は「麻雀は詳しくないんだけど」と前置きして、意外なことを話し始めた。
なんでもその昔、師匠が大学に入ったばかりのころ、健康的な男子学生のご多聞に漏れず麻雀に手を出したのであるが、サークル麻雀のデビュー戦で、役満(麻雀で最高得点の役)をあがってしまったのだそうだ。
それからもたびたび師匠は役満をあがり、麻雀仲間をビビらせたという。
「ぼくはそういう話を聞くだけだったから、へーと思ってたけど、そうか。弱かったのかアイツは」
「いますよ、役満ばかり狙ってる人。役満をあがることは人より多くても、たいてい弱いんですよ」
俺がそんなことを言うと、「なんでも、出したら死ぬ役満を出しまくってたらしいよ」と先輩は言った。
「え?」
頭に九連宝燈という役が浮かぶ。
一つの色で、1112345678999みたいな形を作ってあがる、麻雀で最高に美しいと言われる役だ。
それは作る難しさもさることながら、『出したら死ぬ』という麻雀打ちに伝わる伝説がある、曰く付きの役満だ。
もちろん僕も出したことはおろか拝んだこともない。ちょっとゾクッとした。
「麻雀牌を何度か燃やしたりもしたらしい」
確かに九連宝燈を出した牌は燃やして、もう使ってはいけないとも言われる。
俺は得体の知れない師匠の側面を覗いた気がして怯んだが、同時にピーンと来るものもあった。
役満をあがることは人より多くてもたいてい弱い……さっきの自分のセリフだ。
つまり、師匠はデビュー戦でたまたまあがってしまった九連宝燈に味をしめて、それからもひたすら九連宝燈を狙い続けたのだ。
めったにあがれる役ではないから普段は負け続け、しかし極々まれに成功してしまい、そのたび牌が燃やされる羽目になるわけだ。
俺はその推理を先輩に話した。
「出したら死ぬなんて、あの人の好きそうな話でしょ」
しかし、俺の話を聞いていた先輩は首をかしげた。
「でもなあ……チューレンポウトウなんていう名前だったかなあ、その役満」
そして、うーんと唸る。
「なんかこう、一撃必殺みたいなノリの、天誅みたいな」
そこまで言って先輩は手の平を打った。
「思い出した。テンホーだ」
天和。
俺は固まった。
言われてみればたしかに天和にも、出せば死ぬという言い伝えがある。
しかし、狙えば近づくことが出来る九連宝燈とは違い、天和は最初の牌が配られた時点であがっているという、完璧に偶然に支配される役満だ。
狙わなくても毎回等しくチャンスがあるにも関わらず、出せば死ぬと言われるほどの役だ。
その困難さは九連宝燈にも勝る。
その天和を出しまくっていた………
俺は師匠の底知れなさを垣間見た気がして背筋が震えた。
「出したら死ぬなんて、あいつが好きそうな話だな」
先輩は無邪気に笑うが、俺は笑えなかった。
それから一度も師匠とは麻雀を打たなかった。
019 師匠シリーズ「魚」
別の世界へのドアを持っている人は確かにいると思う。
日常の隣でそういう人が息づいているのを、僕らは大抵知らずに生きているし、生きていける。
しかし、ふとしたことでそんな人に触れたときに、いつもの日常はあっけなく変容していく。
僕にとってその日常の隣のドアを開けてくれる人は二人いた。それだけのことだったのだろう。
大学一回生ころ、地元系のネット掲示板のオカルトフォーラムに出入りしていた。
そこで知り合った人々は、いわばなんちゃってオカルトマニアであり、高校までの僕ならば素直に関心していただろうけれど、大学に入って早々に師匠と仰ぐべき強烈な人物に会ってしまっていたので、物足りない部分があった。
しかし、降霊実験などを好んでやっている黒魔術系のフリークたちに混じって遊んでいると、一人興味深い人物に出会った。
『京介』というハンドルネームの女性で、年歳は僕より二、三歳上だったと思う。
じめじめした印象のある黒魔術系のグループにいるわりにはカラっとした人で、背が高くやたら男前だった。
そのせいか、オフで会っても「キョースケ、キョースケ」と呼ばれていて、本人もそれが気にいっているようだった。
あるオフの席で、『夢』の話になった。
予知夢だとかそういう話がみんな好きなので盛り上がっていたが、京介さんだけ黙ってビールを飲んでいる。
僕が「どうしたんですか」と聞くと、一言「私は夢をみない」。
機嫌を損ねそうな気がしてそれ以上突っ込まなかったが、その一言がずっと気になっていた。
大学生になってはじめての夏休みに入り、僕は水を得た魚のように、心霊スポットめぐりなどオカルト三昧の生活を送っていた。
そんなある日、目を覚ますと見知らぬ部屋にいたのだった。
暗闇の中で寝ていたソファーから身体を起こす。
服がアルコール臭い。酔いつぶれて寝てしまったらしい。
回転の遅い頭で昨日のことを思い出そうとあたりを見回す。
厚手のカーテンから幽かな月の光が射し、その中で一瞬闇に煌くものがあった。
水槽と思しき輪郭のなかににび色の鱗が閃いて、そして闇の奥へと消えていった。
なんだかエロティックに感じて妙な興奮を覚えたが、すぐに睡魔が襲ってきて、そのまま倒れて寝てしまった。
次に目を覚ましたときは、カーテンから朝の光が射しこんでいた。
「起きろ」
目の前に京介さんの顔があって、思わず「ええ!?」と間抜けな声をあげてしまった。
「そんなに不満か」
京介さんは状況を把握しているようで教えてくれた。
どうやら昨夜のオフでの宴会のあと、完全に酔いつぶれた俺をどうするか残された女性陣たちで協議した結果、近くに住んでいた京介さんが自分のマンションまで引きずって来たらしい。
申し訳なくて途中から正座をして聞いた。
「まあ気にするな」と言って、京介さんはコーヒーを淹れてくれた。
その時、部屋の隅に昨日の夜に見た水槽があるのに気がついたが、不思議なことに中は水しか入っていない。
「夜は魚がいたように思ったんですが」
それを聞いたとき、京介さんは目を見開いた。
「見えたのか」と身を乗り出す。
頷くと、「そうか」と言って、京介さんは奇妙な話を始めたのだった。
京介さんが女子高に通っていたころ、学校で黒魔術まがいのゲームが流行ったという。
占いが主だったが、一部のグループがそれをエスカレートさせ、怪我人が出るようなことまでしていたらしい。
京介さんはそのグループのリーダーと親しく、何度か秘密の会合に参加していた。
ある時、そのリーダーが真顔で「悪魔を呼ぼうと思うのよ」と言ったという。
その名前のない悪魔は、呼び出した人間の『あるもの』を食べるかわりに、災厄を招くのだという。
「願いを叶えてくれるんじゃないんですか?」
思わず口をはさんだ。普通はそうだろう。
しかし、「だからこそやってみたかった」と京介さんは言う。
京介さんを召喚者としてその儀式が行われた。
その最中に、京介さんとリーダーを除いて全員が癲癇症状を起こし、その黒魔術サークルは以後活動しなくなったそうだ。
「出たんですか。悪魔は」
京介さんは一瞬目を彷徨わせて、 「あれは、なんなんだろうな」と言って、それきり黙った。
オカルト好きの僕でも、悪魔なんて持ち出されるとちょっと引く部分もあったが、ようは『それをなんと呼ぶか』なのだということを、オカルト三昧の生活の中に学んでいたので、笑い飛ばすことはなかった。
「夢を食べるんですね、そいつは」
あの気になっていた一言の意味とつながった。
しかし京介さんは首を振った。
「悪夢を食べるんだ」
その言葉を聞いて、背筋に虫が這うような気持ち悪さに襲われる。
京介さんはたしかに「私は夢をみない」と言った。
なのにその悪魔は悪夢しか食べない……その意味を考えてぞっとする。
京介さんは眠ると、完全に意識が断絶したまま次の朝を迎えるのだという。
いつも目が覚めると、どこか身体の一部が失われたような気分になる……
「その水槽にいた魚はなんですか」
「わからない。私は見たことはないから。たぶん、私の悪夢を食べているモノか、それとも……私の悪夢そのものなのだろう」
そう言って笑うのだった。
京介さんが眠っている間にしか現れず、しかも、それが見えた人間は今まで二人しかいなかったそうだ。
「その水槽のあるこの部屋でしか私は眠れない」
どんな時でも部屋に帰って寝るという。
「旅行とか、どうしても泊まらないといけない時もあるでしょう?」と問うと、「そんな時は寝ない」とあっさり答えた。
たしかに、飲み会の席でもつぶれたところをみたことがない。
そんなに悪夢をみるのが怖いんですか、と聞こうとしたが止めた。
たぶん、悪夢を食べるという悪魔が招いた災厄こそ、その悪夢なのだろうから。
僕はこの話を丸々信じたわけではない。京介さんのただの思い込みだと笑う自分もいる。
ただ、昨日の夜の暗闇の中で閃いた鱗と、何事もないように僕の目の前でコーヒーを飲む人の強い目の光が、僕の日常のその隣へと通じるドアを開けてしまう気がするのだった。
「魚も夢をみるだろうか」
ふいに京介さんはつぶやいたけれど、僕はなにも言わなかった。