大学時代に体験した話だ。
ずっと心の奥に沈めていたが、最近になって妙な形で整理がついた気がして、吐き出すことにした。
幽霊の話ではない。
少なくとも、そう思っている。
大学一年の秋。友人と飲んだ帰り、終電の一本前で最寄り駅に着いた。駅から家までは徒歩十五分ほど。毎晩のように通る道の途中に、小さな神社がある。鳥居も古く、昼間でも人影は少ない。地元の人間しか知らないような場所だ。
その夜も、何の気なしに境内へ視線をやった。正面に本殿、右手には細い雑木林がある。林といっても幅は狭く、昼間なら向こう側の道路が見える程度だ。
その林の中で、一瞬、動くものがあった。
白い服を着た人影が、木に向かって腕を振り上げている。何かを打ち付けるような動きだった。
丑の刻参りだと直感した。
詳しい知識はなかったが、「誰かに見られてはいけない」ということだけは知っていた。見られた場合、呪いが跳ね返り、見た人間を殺さなければならない、そんな話も耳にしたことがある。
背中に冷たいものが走った。
それ以上見ないように視線を逸らし、何事もなかったふりをして神社を通り過ぎた。
百メートルほど先の交差点で、無意識に振り返ってしまった。
神社の影から、白い顔が半分だけ覗いていた。目だけが、こちらを捉えていた。
見られた。
そう悟った。
女だった。長い髪が肩に垂れている。
走り出したい衝動を必死に抑え、歩幅を変えずに進んだ。だが、電柱やゴミ箱の影を使って、一定の距離を保ちながらついてくるのが分かる。隠れているつもりなのだろうが、動きは不自然で、かえって目立っていた。
分岐路に差し掛かった瞬間、嫌な予感がした。
次の角を曲がったところで、女はすでに前方にいた。
五メートルほど先。
右手に、小さなハンマーを握っている。
叫び声を上げながら、こちらへ向かってきた。
考える余裕はなかった。全力で走り、家の前にあるローソンに飛び込んだ。ガラス越しに外を見ると、女は道路の向こうで立ち止まり、こちらをじっと見ていた。警察に電話し、サイレンの音が聞こえた途端、女は闇の中へ消えた。
後日、あの女は別件で捕まり、精神病院に入ったと聞いた。
そこで、この話は終わったはずだった。
二年後。大学三年の秋。
夜のバイト帰り、最寄り駅の改札を出た瞬間だった。
目の前に、見覚えのある女が立っていた。
ドラえもんのシャツに汚れたスカート。髪は短く、顔立ちも記憶とは少し違う。だが、視線だけが、あの夜と同じだった。
目が合った瞬間、女はにやりと笑った。
「あの時の返しに来たよ」
声は低く、落ち着いていた。
意味が分からないまま離れようとすると、腕を掴まれ、駅のベンチに座らされた。女は淡々と、名前や年齢を聞いてくる。適当に答えていると、急に声色が変わった。
「待て。殺すぞ」
ポケットから、小さな包丁を取り出した。
その刃は、思っていたよりずっと現実的だった。
恐怖と同時に、なぜか強い違和感が湧いた。
この女は、あの神社のことを知っているはずなのに、細部を一度も口にしない。白装束の話もしない。呪いの話もない。ただ、「返し」という言葉だけが浮いている。
強引に腕を振りほどき、逃げた。
女は「殺してやる」と叫びながら追ってきたが、交番に駆け込んだところで警官に取り押さえられた。
事情聴取の中で、警官が首をかしげていたのを覚えている。
神社付近で起きた事件の記録は、一件しかない。しかも、女の年齢が合わないという。
後日、その女は更生施設に送られた。
数年後、施設内で自ら命を絶ったと聞いた。
それで終わりのはずだった。
だが最近、あの神社の前を通ったとき、雑木林を見て気づいた。
木の一本に、古い釘の跡が残っている。数ではない。位置も低い。人の胸の高さより、ずっと下だ。
あの夜、あそこにいたのは、本当に一人だったのか。
二年後、駅にいた女は、誰だったのか。
今でも時々、駅の改札を出た瞬間、視線を感じることがある。
振り返っても、誰もいない。
ただ、返しに来る、という言葉だけが、頭の中に残っている。
[出典:613: 2015/09/10(木) 22:59:40.98 ID:k16fs3vw0.net]