友人の村田から聞いた話だ。
だから、これは伝聞にすぎない。真偽はわからない。
高校一年の夏休み、久しぶりに村田と会った。進学先は別で、駅前で待ち合わせた村田は、見違えるほど派手になっていた。いわゆる高校デビューというやつで、こちらがからかうと、本人も自覚があるらしく照れたように笑っていた。
近くのファストフード店でだべっているうちに、自然と学校の話になった。部活だの教師だの、どうでもいい話が一通り終わったあと、村田が少し声を落として言った。
「うちの高校さ、怪談があって」
それが「ヒシマさん」だった。
名前を聞いた瞬間、私はカシマさん系の派生だろうと思った。怪談を聞くと現れる、という類の話はどこにでもある。村田の話も、導入だけ聞けば目新しさはなかった。
違和感があったのは、その内容だった。
ヒシマさんは、怪談を聞いた人間のところに現れる。だが、なにもしてこない。ただ立っているだけだという。声をかけることも、触れてくることもない。視界に入る位置に、常に背中を向けて立っているだけ。顔を見た者はいない。目撃談はすべて後ろ姿で統一されているらしかった。
しかも、現れるタイミングも、消える条件も不明だ。聞いた翌日に出る者もいれば、数か月後に突然視界に入り込んできたという話もある。一度見え始めると、どれくらいの期間つきまとわれるのかもわからない。
「一生かもしれないって言われてる」
村田は冗談めかして言ったが、笑ってはいなかった。
紺色のスーツに、腰まである長い髪の女。
それがヒシマさんの共通した外見だという。
「駅とか、校内とか、街中とか、どこでもいるらしい」
「それ、普通の人と区別つかなくないか」
私がそう言うと、村田は一瞬だけ黙った。
「……そうなんだよ」
無害と言えば無害だ。なにもしてこないのだから。ただ、背中を向けた人間が、常に視界の端に立っている。それだけの存在が、どれほど精神を削るかは想像がついた。
村田は続けて、ある事件の話をした。
何代か前の先輩で、駅のホームから女を突き落として逮捕された者がいたという。面識のない会社員で、たまたま出張で来ていた女性だった。取り調べで、その先輩は繰り返し同じことを言ったそうだ。
「あれはヒシマさんだった」
「ずっと、後ろに立っていた」
もちろん、それが認められるはずもなく、ただの傷害事件として処理された。だが、校内では別の意味で語り継がれているらしい。
「見間違えたんじゃないかって話になってる」
村田はそう言った。
ヒシマさんは、背中しか見せない。
人間と区別がつかない。
そして、なにもしてこない。
私は、その条件が妙に噛み合っている気がして、気分が悪くなった。
なにもしないからこそ、目を逸らせない。
顔を見せないからこそ、確認できない。
確認できないからこそ、疑い続ける。
そして、ある瞬間に、判断を誤る。
「……嫌な話だな」
そう言うと、村田も同意するように頷いた。
「だからさ、ヒシマさんの怪談そのものは、あんまり詳しく語られないんだって」
「なんで」
「聞いたら、来るから」
当たり前のことのように言われて、私はそれ以上追及しなかった。村田も、それ以上は話そうとしなかった。
その日はそれで別れた。
帰り道、駅のホームに立ちながら、私は無意識に背後を気にしていた。電車を待つ人間は多く、紺のスーツを着た女性も何人もいた。だが、誰もこちらを気に留める様子はない。
電車が来て、私はそれに乗った。
それからしばらく、ヒシマさんのことは思い出さなかった。夏休みが終わり、学校が始まり、日常に流されていった。
ただ、ある日、ふと気づいた。
街を歩いているとき、誰かが視界の端に立っている気がする瞬間が増えた。振り向けば、人混みに紛れて消える。ただの思い過ごしだと思っていた。
紺のスーツ。
長い髪。
条件に当てはまる人間は、いくらでもいる。
見間違えるはずがない、と自分に言い聞かせた。気にしすぎだ、と。
それでも、駅のホームで背中を向けた誰かを見るたびに、胸の奥がざらつく。
顔を確認しようと一歩踏み出しかけて、なぜか足が止まる。
もし、違ったら。
もし、違わなかったら。
確認すること自体が、なにかを越えてしまう気がした。
村田は、その後すぐに連絡が取れなくなった。理由は知らない。進路の違いで疎遠になるのは珍しくない。ただ、あの怪談について、もう一度聞く機会は失われた。
今でも、背中を向けた誰かが視界に入ると、私は一瞬だけ考える。
これは、誰だ。
そして、その答えを確かめないまま、目を逸らす。
──この話を、あなたはもう聞いている。
[出典:怖い話&不思議な話の投稿掲示板/投稿者「ほしな ◆YZpuwgGc」 2019/03/31]