この話は、俺が二十年位前に体験した実話だ。
投稿者「中年H ◆-」2014/12/21
俺は当時、浅草で人力車を引いていた。
しかし、元々ここら辺が地元ではなかったので、浅草の地理には疎かった。
それでも親方からは、仕事をしながら覚えていけば良いと言われ、乗りと勢いで人力車を走らせた。
今思うと、かなり適当な車夫だったと思う。
そんな俺が車夫を始めて一週間程経った頃の事だ。
その日、五十歳位の酔ったオッサンを乗せた。
オッサンは元々は浅草が地元だったそうだ。
今は遠くに住んでおり、浅草は随分久しぶりだと話していた。
俺はオッサンの指示に従いながら浅草近辺を人力車で走った。
オッサンは浅草を随分と懐かしがっていたが、同時に昔と比べ様変わりしてしまった浅草を寂しく思っているようでもあった。
俺の記憶違いで無ければ花川戸の辺りを走っていた時だったと思う。突然霧が出てきたんだ。
季節は六月の下旬でその日は雨上がりだった。
霧は進めば進む程に濃霧となっていった。
それは有り得ない程の濃霧となった。1メートル先も見通しが利かない程の濃霧だ。
浅草でこのよう事は異常だ。
異常なのはそれだけでは無かった。
空の景色がもっと異常だった。空が赤と紫の混じった異様な色となっていった。
しかも赤と紫が混じり合いながら巨大な渦を巻き始めていた。
まるで天変地異が起こったかと思わせる景観であった。
俺とオッサンはビビった。
それでも人力車を走らせた。
すると、段々と霧が薄くなっていった。
前方もだいぶ見通しが利くようになって俺は驚いた。
さっきまでマンションなど沢山あったのに、突然、平屋の家ばかりが建ち並ぶ景観となっていた。
しかも、先程までは舗装された道路を走っていたのに、今走っているのは土埃が舞う未舗装の道となっていた。
更に見渡すと、建ち並ぶ平屋が有り得ない程ボロいのに気付いた。全て木造の家。
まるで、明日のジョーに出て来るドヤ街みたいな感じ。
しかも、あれ程沢山目に付いた自動販売機がひとつも見当たらない。
もう少し先に進むと、見た事の無い変な車が路肩に停まっていた。
後で調べて解ったが、あの車はフジキャビンと言う名の車だった。
人力車に乗ってるオッサンに目を向けると驚愕していた。「信じられん、こんな馬鹿な」と呟いていた。
俺は構わず先に進んだ。
すると、少し広い場所に出た。
何人か人がいたが、皆ホームレスのように汚なかった。
そいつらも俺達を見て驚いていた。しかも、段々と人が集まり俺達の周りに群がって来た。
突然オッサンが「お前、少しここで待っててくれ。すぐ戻るから」
そう言って慌ててどこかへ行ってしまった。
仕方が無いので、俺はタバコを吸いながら待つ事にした。
それにしても、この周りを取り囲み集まって来た連中はとても異様であった。
皆、異様に汚なく、何故か俺に異常なまでの警戒心を抱いているようで、遠巻きに取り囲むだけで近づいて来なかった。
俺はヤバイ所に来てしまったと悔やんだ。
暫くすると一人の男が、意を決したかのように俺に話しかけて来た。
「おっ お前は何しに来たんだ?」
俺はそいつに答えた。
「見ての通り、俺は人力車に客を乗せて言われるままに来たんだよ」
そいつは「それに俺も乗っけてくれ」と言って来た。
何か異様な雰囲気だったし、少しなら良いかと思って乗っけた。
そしたら、そいつのハシャギ方が半端じゃなかった。
それを見て、周りの連中も警戒心を解き一気に群がって来た。まるで芸能人にファンが群がって来るよう感じ。
俺も乗せろ、俺も乗せろと大騒ぎ。
正直、怖くなった。
何で人力車がそこまで珍しいのか解らんかった。
そいつらのテンションが半端じゃなく、人力車が壊されそうな勢いだった。
「これはヤバイ」
俺はそいつらを追い払う事にした。
そしたら最初に話しかけて来た奴が「何だお前、どけっ」そう叫んで俺に襲いきって来た。
これはやるしかない。
俺は格闘技をかじっていたので、カウンターでボディに思いっきり蹴りをぶちこんだ。
そいつは敢えなくダウン。
ブチキレた俺は「ぶち殺してやるっ」と叫びながら、倒れたそいつを泣き叫ぶのも構わず蹴りまくった。
周りの群衆は、ブチキレた俺にビビって皆逃げて行った。
そしたら突然背後から「乱暴は止めなさいっ」若い女性の大きな声がした。
後ろを振り返ると、魔法使いサリーちゃんに登場するよし子ちゃんを思わせる、おさげヘアーの若い女性が立っていた。
「あなた、殺してやるなんて、何て恐ろしい事を言うのですか」
俺はその娘に言った。
「あんたは見ていなかったけど、こいつが突然俺に襲いかかって来たんだ」
その娘は、「だからと言って、泣き叫んでいる人をあんなにまで痛めつけるなんて酷すぎますっ」
そして、その娘は悲しみに満ちた表情で俺に言った。
「ここに住んでいる人達は本当に可哀想な人達なのよ」
俺は言った。
「大体ここは一体何なんだ?こんなスラム街、平成の時代にまだあるのか?まるで何十年も昔の昭和の街並みじゃないか」
そしたらその娘が、「平成……?何ですかそれは?今は昭和ですよ。あなたは何を言ってるの?」
俺は衝撃を受けた。
「お前こそ一体何を言ってるんだ。今は平成だろう、頭がおかしいのか?」
俺の言葉を受けその娘は、「頭がおかしい?あなたはさっきから何を言ってるのですか?それはあなたでしょう」
俺は混乱した。もう訳が解らん。
そしたらオッサンが戻って来た。
オッサンが「この騒ぎは一体何なんだ?」と尋ねてきたので、今までの経緯を一通り話した。
その後、オッサンがお下げヘアのよし子ちゃんに目を向けた。
オッサンの表情が見る見る変わっていった。驚愕に満ちた表情だった。
そしてオッサンはその娘に、「こいつが皆さんに迷惑をかけて大変申し訳ありません。どうか赦してやって下さい」
俺は腑に落ちなかったのでオッサンに言った。
「何で俺が悪いんだ?ふざけんなよ」
オッサンは小声で、「頼むからあの娘に謝ってくれないか。あの娘は本当に優しい娘なんだよ。頼む、この場は謝ってくれ」
オッサンが目に涙を溜めて頼んで来るので仕方無く謝った。
そしたら、さっき蹴飛ばした奴と周りで遠巻きに見てた連中が、「そんな奴は赦すな。みんなでやっちまえ」と騒ぎ始めた。
これはマズイ事になったと思って見てたら、お下げのよし子ちゃんが一喝。
「お止めなさいっ。どうして仲良く出来ないのですか?お願いですからみんなで仲直りして下さい」
そしたら皆が驚く程素直に従った。
俺は内心思った。やるな、よし子ちゃん。
よし子ちゃんは、ここら辺の連中からリスペクトされているようであった。
よし子ちゃんは俺を見て言った。
「どうかお願いです、あの人達を赦してあげて下さい。本当は皆さん、とても良い人達なんです。どうかお願いします」
彼女は目に涙を溜めて俺にお願いして来た。
俺は「解ったよ。別に気にしてないから」と彼女に言った。
何だか女に泣かれると妙に落ち着かない。
タバコも切らして口が寂しくなったので、ポケットに入っていたクロレッツガムを取り出して口に入れた。
そんな俺を珍しそうに見つめる少年がいた。小学校三年か四年位の丸坊主の男の子だ。
俺は「何だ坊主、何見てんだ?ガム食べるか?」
そう言ってガムを差しだした。
少年はとても嬉しそうに頷いた。
その子は俺のあげたクロレッツガムを口に入れて噛み始めた。
その途端、もの凄くビックリした顔をして両手で口を押さえた。
「坊主、どうかしたのか?」
そしたらその子が、「口の中が凄く変な感じする。口がヒリヒリする」
そう言って、ガムを自分の手の平に吐き出した。
俺は「お前、クロレッツ食べた事無いのか?」
少年は無言で頷いた。
俺は珍しいなと思い、少し驚いて言った。
「お前、ミント系のガムは食べた事無いのか。もう少し我慢して噛んでみろ。甘くなって食べやすくなるから」
少年は頷いて、手の平に吐き出したクロレッツガムをもう一度口に入れた。
噛んでくうちに、段々とスーパーミントの刺激が薄れ甘味が増して来たのか、美味しい美味しいと一生懸命噛んでいた。
オッサンの方を見ると、目を剥いて少年を凝視していた。
オッサンの様子が余りにも変なので、「オッサン、この子知ってるの?」と訊いてみた。
するとオッサンは、ため息混じりに深く頷いた。
そして俺に有り得ない事を言った。
「あの子どもは俺だよ」
「ハァ? それ、どういう意味?」
俺はオッサンの言った事が全く理解出来なかった。
オッサンは、「信じられんと思うが、あの子は幼い頃の俺なんだよ」
俺はもう帰りたいと思った。
どいつもこいつも頭がおかしい。皆イカれてる。
それにオッサンを乗せてから時間も大分経っているはずだと思い、腕時計に目をやると三時五分で止まっていた。
「何だよ、電池切れかよ」
オッサンに「今、何時か分かる?」
するとオッサンは「ありゃ、三時過ぎで止まってるよ」
オッサンの時計を見ると三時五分で止まっていた。
何だか偶然とは思えない。
とにかく、もう戻らなくてはと思い、オッサンに「もう二時間位は経っているはずだから戻るよ」
オッサンはとても寂しそうな表情で、「そうかぁ、少し待っててくれないか」
そう言って少年の方へ歩み寄り、「坊主、いいかぁ、お父さん、お母さんを大切にするんだよ」
オッサンは涙目で少年の両肩を掴み、呟やくようにゆっくりと言った。
少年はキョトンとしながら、黙って頷いた。
俺はオッサンに「早く乗ってくれ、もう行くよ」
オッサンを乗せてから、お下げヘアのよし子ちゃんに「今日はお騒がせして悪かったな。また、遊びに来るよ」
俺は別れの挨拶を済ませると、人力車を元来た道へと走らせた。
少し走らせると、また霧が出て来た。
さっきと同じように段々と濃霧になっていった。
空を見ると赤と紫の大きな渦を巻いていた。
構わず進むと段々と霧が薄くなっていき、見通しの利く場所まで出ると、いつの間にか舗装された道路を走っていた。
空もいつも通りの青空になっていた。
街並みも、マンションや店が建ち並ぶいつもの雰囲気。
自動販売機も当たり前にある。
何だかホッとした。
何気に腕時計を見ると、秒針が動き始めていた。
オッサンの腕時計も動き始めた。
俺はオッサンに向かって、
「今時あんな汚い街並みが在るなんて信じられ無いよ。まるで、明日のジョーや巨人の星に出て来るバラック小屋の街だよ」
するとオッサンは語気を強めて言った。
「あそこに住んでいた人達はな、必死になって生きていたんだよ。馬鹿にしたような言い方をするんじゃない」
オッサンは目に涙浮かべながら、怒りと悲しみに満ちた表情で俺を見据えていた。
さすがに俺もマズイ事を言ったと思い謝った。
それと、オッサンに気になる事があったので質問した。
「あの、お下げヘアの娘はオッサンの知り合い?」
するとオッサンは「俺が小さい頃、よく可愛がって貰ったんだよ」
俺は「ハァ??? 意味が解らん? それ、どういう事?」
オッサンは「きっと、これ以上話しても信じて貰えんよ。だから、もう話さない」
俺も訳が解らんから、よし子ちゃんの事はそれ以上訊かなかった。
俺はもう一つ気になる事があった。
「オッサンそう言えば、さっき何処に行ってたの?」
オッサンは「親父とお袋を見て来たんだよ。懐かしかったなぁ。本当は話しもしたかったんだけどなぁ」
俺は「ご両親と話さなかったの? 何で?」
オッサンは「俺が息子だなんて言っても、信じてなんか貰えんよ」
俺はオッサンの言う事が全く理解出来なかったけど、「よく解らんけどさ、親御さんが浅草に居るんなら、また遊びに来ればいいよ」
するとオッサンは「親父もお袋も随分前に死んじゃったよ」
俺はビックリして言った。
「何言ってんだよ。さっき見て来たって言ったじゃん」
オッサンは満足そうに言った。
「信じろと言う方が無理だよなぁ。それにしても、夢のような出来事だったなぁ」
オッサンは続けて、ゆっくりと話した。
「俺な、大きな病気してな、物凄く落ち込んでたんだ。やけになってな、毎日酒飲んでた。けどな、今は心がな、喜びで満たされてるんだよ。もう、いつ死んでもな、悔いはないよ」
そしてオッサンは俺に、「さっきお前が食べてたガム、あれ、一つくれないか?」
俺はオッサンに、クロレッツガムを一つあげた。
オッサンは嬉しそうに口に入れ、両手で口を押さえながら、
「これだっ この味だよ、懐かしいなぁ。あの時、このガムをくれたのお前だったんだなぁ。まさか、あの時、俺も居たなんて思わなかったなぁ」
オッサンは、またしても訳の解らん事を言っていたが、気にするのを止め、雷門へ向けて走った。
雷門に到着したのでオッサンを降ろした。
俺はオッサンに、
「オッサン、また機会があったら浅草へ遊びに来なよ。俺はいつでも雷門の前に居るからさ」
しかしオッサンは、
「俺はもう、ここには来れ無いと思う。今日は本当に、本当にありがとうな」
そう言って涙目で握手をして来た。
そしてオッサンは、「身体は大切にするんだぞ。いつまでも元気でな」そう言って帰って行った。
オッサンとはその後、一度も会って無い。
俺はさっきまで止まっていた腕時計が気になった。
正しい時間に針を合わせたいと思ったので、人力車の同僚に
「さっき腕時計が停まっちゃってさ、正しい時間に合わせたいんだ。今、何時かな?」
そしたら、その同僚は「今は3:30だよ」
俺の時計を見ると3:30になっていた。
「あれっ!どうなってるんだ?」
間違い無く二時間以上は走っていたのに、時間が余り進んでいなかった。
俺は疲れているんだな。
そう思って、その日は早めに家に帰って寝た。
後日、俺はもう一度、あのバラック小屋の街へ行こうと思った。
何となく、お下げヘアのよし子ちゃんが気になったからだ。
この間、騒がせてしまったお詫びに、飯でも連れて行ってあげようと思った。
それに、彼女の本名も聴いてもなかったし、あの街の事も含めて色々と聴いて見たかったんだ。
しかし、いくら探しても、あの街は見つからなかった。
それから十年以上の月日が経った頃だ。
俺は人力車の仕事を、随分前に辞めていた。その頃は営業の仕事に就いていた。
当時は読書にはまっており、暇さえあば図書館に行って、ジャンルを問わずノンフィクションの本を読み漁っていた。
その日も俺はノンフィクションの本棚を手当たり次第漁っていた。
そして、何気に取った本を数ページめくった。
めくったページに写真が写っていたので、何の写真か見てみた。
俺は今までの人生の中でも、かって無い程の衝撃を受けた。
その写真に写って居るのは何と、あの、お下げヘアのよし子ちゃんだった。
絶対に間違いない。
これは一体どういう事だ?
本の題名は、俺の記憶違いで無ければ、
『蟻の街のマリア 北原怜子の生涯』
よし子ちゃんの本名は北原怜子(きたはらさとこ)と言う名前だった。
驚いた事に、彼女は1958年に若くして他界していたのだ。
俺は混乱した。
どうなってるんだ?
彼女は俺が生まれる前に他界していたからだ。
彼女は有名なキリスト教のクリスチャンだったそうだ。
彼女は1950年代の浅草にあった《蟻の街》と呼ばれた貧民街で、イエス・キリストの愛を伝える為、自ら貧民街に住み、そこに住む貧しい人達の為に自ら奉仕をしていたそうだ。
全ての謎が解けた。
信じ難い事だが、あの時俺はオッサンを乗せて、千九百五十年代の浅草へと時空を越えて人力車を走らせたんだ。
あれから色々考えた。
何故、俺とオッサンは人力車で時空を越えたのか。
ここからは、あくまで俺の仮説だ。
オッサンに原因があったのではないか?
オッサンは大きな病気をして、やけになり、毎日酒を飲んでたと話していた。
つまりオッサンは、不治の病にかかり、自分の死期が近いと感じていた。
オッサンは死ぬ前に、死んだ両親に会いたいと、毎日強く想っていたのでは無いか。
そんなオッサンの強い想いが浅草でスパークした。
そして、信じられない奇跡が起こった。
俺をも巻き込み人力車ごと、時空を越えて懐かしい両親のもとへと行ってしまった。
ここまで書いた事は、正真正銘の事実だ。
誰にも話した事は無いけどね。
俺は、オッサンが今頃天国で、自分の両親や北原さん、そして、キリストと一緒に幸せに過ごしている事を、切に願ってるんだ。
(了)