夜中の二時。男は薄暗い部屋でテレビをつけたまま、身動きもせずに座っていた。
眠れない理由は分からない。疲労は確かに溜まっているはずなのに、瞼の裏に暗闇が落ちてこない。頭の奥が妙に冴えていて、理由を探す気力さえ削がれていた。
リモコンを握り、無意識にチャンネルを切り替える。通販番組。試験電波。無音に近い風景。深夜のテレビは、世界が停止したあとの残響みたいなものだと男は思っていた。誰も見ていない前提で流れ続ける映像。生きているのか死んでいるのか判然としない時間。
仕方なく通販番組に戻す。画面の中では、歯の白いタレントが健康器具を持ち上げて笑っている。奇跡のような効果を、確信に満ちた声で語っている。
「嘘だろ」
独り言は音にならず、喉の奥で潰れた。それでも男は目を離せなかった。深夜でも仕事がある人間と、ただ座っているだけの自分。その差が、画面の光を通してじわじわと染み込んでくる。
そのとき、映像が止まった。
音もなく、動きもなく、画面が一枚の板のように硬直する。次の瞬間、上部に赤い帯が現れ、《ニュース速報》の文字が浮かび上がった。
男は背筋を伸ばした。事件か事故か。暇な夜に投げ込まれた異物に、意識が一気に引き寄せられる。
だが、続いた文字列は、どこにも行き先を持っていなかった。
確実でないならば君の腰が砕けるほどのハンマーを持っているならば
男は瞬きを忘れた。意味を掴もうとした瞬間、文字は流れ続ける。
僕達はハンマーを持っているならば君の腰を砕くことも確実になるのならば
句読点も改行もない。ニュースの体裁を保ちながら、内容だけが壊れている。誰かの独り言が、編集されないまま垂れ流されているようだった。
君の言葉を砕くハンマーを持って君の所にいくのならば
男の喉が鳴った。これは放送事故だ。そう思おうとしたが、赤い帯は消えない。文字は増殖する。画面を埋め尽くす勢いで、同じ単語が形を変え、絡まり合い、戻ってくる。
地図を逆さの地図を血に染めた地図を
ここで男は、初めて自分が呼吸を浅くしていることに気づいた。言葉が怖いのではない。言葉が、誰かに向けられている感じが怖い。
君の部屋に行きたいのなら
リモコンに視線を落とす。電源を切ればいい。それだけのことだ。だが指が動かない。画面から目を離した瞬間、何かが確定してしまう気がした。
頭を砕くのなら目を砕くのなら
意味は崩れているのに、方向だけは一貫している。近づいてくる。集まってくる。ここに向かって。
男はリモコンを持ち上げ、電源ボタンを押した。
画面は暗転した。部屋は一気に静まり返る。耳鳴りのような無音。男は息を吐いた。
その瞬間、壁の向こうから音がした。
ドン。
乾いた衝撃音。古い建物の、どこかが軋んだだけだと頭では理解できた。それでも男は立ち上がれなかった。
ドン。
同じ音。位置が近い。隣室は空き部屋のはずだ。管理会社に確認した記憶もある。誰もいない。誰も住んでいない。
ドン。
壁紙が震え、細かな粉が床に落ちる。男は声を出そうとしたが、喉が閉じたままだった。
壁に、黒い染みが浮かび上がる。最初は湿気の跡のようだった。それがゆっくりと広がり、輪郭を持ち始める。染みは形を変え、何かの重さを帯びていく。
男は目を逸らせなかった。理解しようとしていないのに、理解しかけている自分がいる。
染みの中心が、わずかに盛り上がった。
その瞬間、男の頭にニュース速報の文字が蘇った。確実でないならば。ハンマーを持っているならば。
壁は破れなかった。何かが出てくることもなかった。ただ、壁の向こう側に、確かな存在感が集まっている。それだけが分かった。
男は後ずさりした。床に落ちた粉を踏み、音を立てた。その音に応えるように、壁の染みが脈打つ。
テレビの黒い画面に、自分の顔が映っている。青白く、歪んでいる。画面の奥に、まだ文字が残っている気がした。
確実でないのならば。
男はそこで、ようやく理解した。この夜に起きていることは、襲撃でも怪異でもない。選択の結果だ。見続けたこと。切らなかったこと。意味を掴もうとしたこと。
部屋の中で、世界の向きが少しだけ傾いた。そのズレは、もう戻らない。
壁の染みが、ゆっくりと床へ流れ始める。男は動かなかった。動けなかった。
テレビの画面は、最後まで黒いままだった。
[出典:402 名前:角焼もち:2006/12/13(水) 01:31:07.42 ID:/U7vpyPu0]