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短編 r+ 洒落にならない怖い話

沈む柄杓 rw+5,556-0523

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一九九五年の一月、震災の一週間前だった。

日付だけは覚えている。あのあと、家の中も学校も近所も落ち着かなくなって、冬休みの最後に山へ行った話なんて、誰も聞き返さなくなったからだ。

その日、俺は友達のタケシと、タケシの姉ちゃんに連れられて、山奥の自然公園へ向かった。タケシが正月に買ってもらったカメラを試したがっていた。姉ちゃんは免許を取って半年くらいで、細い山道を曲がるたび、体ごとハンドルに寄りかかるように運転していた。

朝から霧が出ていた。道路は濡れていて、谷に沿って何度も曲がった。助手席のタケシが、窓の外を見ながら言った。

「山っていうより、底やな」

俺は後部座席で笑ったつもりだったが、声は出なかった。

自然公園に着く前、小さな滝が見えた。道路脇に車を寄せられる空き地があり、そこから斜面を下りると、崖の間を水が落ちていた。滝というより、山の傷口から水が流れているような場所だった。

姉ちゃんは車から降りなかった。

「近くで撮ったらすぐ戻り。滑るで」

俺たちはカメラを持って下りた。足元は腐った葉で柔らかく、岩には黒い苔が張りついていた。水音が近づくにつれて、耳の奥が詰まっていく感じがした。

滝壺の横に、小さな御堂があった。

最初は物置かと思った。柱は黒ずみ、屋根は半分落ち、入口にかかっていたらしい赤い布が、裂けた舌みたいに垂れていた。中は暗く、何が祀られているのか分からなかった。ただ、奥の壁に白い跡がいくつも残っていた。昔、何かが貼られていて、剥がされたあとに見えた。

「ここ、撮っとこ」

タケシがカメラを構えた。シャッターの音が水音の間に挟まった。

俺は滝の写真を撮っていた。白い水しぶきが、フィルム越しに見ると妙にきれいだった。何枚も撮った。今思えば、あの時点で戻ればよかった。

御堂の入口の脇に、柄杓が置いてあった。

竹の柄は黒く変色していて、先の椀はひび割れていた。それでも形は残っていた。水場にあるものだから、水を汲むものだと思った。

俺はそれを手に取った。

軽かった。乾いているのか濡れているのか分からない手触りだった。滝壺に近づき、柄杓で水をすくって、少しだけ口に含んだ。

冷たかった。

ただ冷たいのではなく、舌の上の熱を抜かれるような冷たさだった。すぐ吐き出した。タケシが笑った。

「何してんねん。アホやろ」

そう言いながら、俺の手から柄杓を取った。

そのとき、上から声がした。

「おーい」

俺たちは同時に顔を上げた。

車の方ではなかった。滝の上だった。霧と枝でよく見えない崖の上から、誰かが呼んだように聞こえた。

「姉ちゃん?」

タケシが言った。

返事はなかった。水音だけが続いていた。

タケシは柄杓を持ったまま、滝壺の縁にしゃがんだ。俺は御堂の方を見ていた。中には何もない。そう思った。だが、さっきより暗く見えた。水音のせいで、空気そのものがそこへ吸われているようだった。

タケシが柄杓を水に差し入れた。

その瞬間、声がした。

「ぼおおおお……」

低い音だった。女の声に似ていたが、女が出せる声とは思えなかった。滝の上から聞こえるのに、足元の水から響いているようでもあった。

「ぼおおおお……ぼおおおお……」

俺は動けなかった。

タケシも動かなかった。しゃがんだまま、柄杓を水に沈めていた。肩がこわばっている。顔は見えない。ただ、手だけが水面の近くで止まっていた。

「タケシ」

呼んだつもりだった。声は滝に潰された。

もう一度呼んだ。

タケシは返事をしなかった。

雨が降り始めた。細かい雨がすぐに本降りになり、御堂の屋根の欠けたところから水が落ちた。ぽた、ぽた、という音だけが、滝の音とは別に聞こえた。

どれくらいそうしていたか分からない。

突然、背後でクラクションが鳴った。

「パアアッ」

車の方だった。

その音で、俺はようやく息を吸った。タケシの肩を掴んで揺すった。タケシの指がゆるみ、柄杓が水に落ちた。

柄杓は浮かなかった。

水面に触れた瞬間、そのまま下へ沈んだ。木でできた古い柄杓が、石みたいに真っ直ぐ沈んだ。

タケシが立ち上がった。顔が白かった。俺たちは何も言わずに斜面を駆け上がった。姉ちゃんは窓を開けて怒鳴っていた。

「何してたんよ。呼んでも戻ってこんし」

タケシは何も言わなかった。

車に乗ってからも、ずっと黙っていた。姉ちゃんが何度か話しかけたが、返事をしたのは俺だけだった。自然公園には行かなかった。そのまま帰った。

家に着くころには雨はやんでいた。

その数日後、学校でタケシに聞いた。

「あのとき、何見てたん?」

タケシは最初、知らん、と言った。けれど放課後、誰もいなくなってから、ぽつりと話した。

柄杓を水に入れた瞬間、下から掴まれたのだという。

手ではない、とタケシは言った。水そのものが手の形を覚えていて、それで握ってきたみたいだったと。痛くはなかった。ただ、離したらいけないと思ったらしい。自分でそう思ったのか、思わされたのかは分からない。

俺の声は聞こえなかったという。

滝の声も聞こえなかったという。

代わりに、すぐ近くで誰かが「返して」と言っていたらしい。

それが何を指していたのか、タケシにも分からない。

写真は現像した。

俺の撮った滝の写真は、どれも白く煙っていた。水しぶきのせいだと思えばそう見えた。ただ、御堂を撮ったものだけはなかった。タケシは確かに何枚も撮っていたのに、そこだけ飛んでいた。

タケシのカメラは、現像に出す前に一度、店の人に呼び止められた。

フィルムがうまく巻けていないと言われたそうだ。父親がその場で確認すると、フィルム室の中に黒いものが絡んでいた。

長い髪だった。

濡れていた。

数本ではなかった。細い束になって、フィルムに巻きついていたという。誰の髪かは分からなかった。タケシの家に、あんなに長い髪の人はいなかった。

その一週間後に震災が起きて、俺たちはその話をしなくなった。家も学校も、もっと大きな出来事の話でいっぱいになった。山の滝や、古い御堂や、カメラの中の髪なんて、誰かに話してもすぐ消えてしまう話だった。

ただ、タケシだけは変わった。

中学に上がってからも、高校に入ってからも、水辺で誰かに呼ばれるのをひどく嫌がった。川遊びに誘うと断った。海でも遠くに行かなかった。プールでさえ、後ろから名前を呼ばれると怒った。

一度だけ、俺はふざけて言ったことがある。

「おーい、タケシ」

場所は学校の手洗い場だった。蛇口から水が出ていた。

タケシは振り向かなかった。

蛇口をじっと見たまま、低い声で言った。

「それ、俺に言うな」

それから俺も、水のそばでは人を呼ばなくなった。

今でも、雨の日に排水溝の奥から水の音が続いていると、あの滝を思い出す。あの御堂の入口に、もう柄杓はないはずだ。沈んだのだから。

けれど、たまに思う。

あの日、あの声に最初に返事をしたのは、俺たちのどちらだったのか。

「おーい」と聞こえたとき、俺はたしかに顔を上げた。

タケシも、顔を上げた。

返事をした覚えはない。

でも、水のそばでは、声に出さなくても返事になることがあるのかもしれない。

[出典:132 :本当にあった怖い名無し:2012/11/27(火) 17:17:03.43 ID:RAUx7cQr0]

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