聴取記録:K印刷工場労災事故に関する参考人供述
※本記録は当該事故発生の二日前に退職した元従業員S氏への非公式な聞き取りを書き起こしたものである。公式報告書には未収録。
(録音再生開始)
辞めた理由ですか。ええ、関係があると言えばあります。ないと言えばない。ただ、あの事故は、起きる前から分かってました。予感じゃない。もっと手前です。
あの日、D棟の地下で古紙の搬出をしていました。午前三時半を少し回った頃です。輪転機が止まる休憩の切れ目で、工場全体が一瞬だけ静かになる時間帯があるでしょう。耳栓をしていても腹に響くはずの場所なのに、その時だけ空気が澄んでいた。
溶剤の匂いじゃない。生臭い。古井戸の底みたいな、湿った匂いです。
パレットを積んだフォークリフトを降りて、自販機へ向かおうとしました。D棟とE棟をつなぐ連絡通路、防火シャッターの下を通るために緩いスロープになっている場所です。その下りきったところに、人が立っていました。
最初は警備員だと思いました。でも違う。作業着は着ているのに、工場の色じゃない。泥を吸ったみたいな、どす黒い灰色のつなぎでした。ヘルメットはない。じっと、こちらを向いている。
見ていたのかどうかは分かりません。
顔がなかった。
のっぺらぼうじゃない。首から上が、黒く塗り潰されている。インク壺に頭を突っ込んだみたいに、目も鼻も口も、黒い粘ついたもので埋まっていて、凹凸が分からない。
声は出ませんでした。喉が締まり、心臓だけが勝手に早鐘を打つ。逃げなきゃいけないのに、足が動かない。蛇に睨まれた蛙というより、不良品としてラインから外されるのを待っている感覚でした。
その男が一歩、前に出ました。
足音がしない。コンクリートなのに、ゴム底の音がない。
顔の、口があるはずの辺りが裂けました。黒い液体が糸を引き、空気が抜けるような音がしました。
『……版ズレだ』
低い、機械みたいな声でした。感情も抑揚もない。測定結果を読み上げるみたいな調子です。
『……調整しないとなぁ』
意味は考えませんでした。考えたくもなかった。ただ、その言葉が修理や修正じゃなく、別の処理を指しているのは分かりました。
気づいたら事務所まで走っていました。途中、誰にも会わなかった。その日のうちに退職届を出しました。体調不良ということにして。
だって、次は自分だと思うでしょう。「版ズレ」と言われたなら、調整されるのは。
……え。
亡くなったMさんも、事故の直前に同じことを言っていた?
『黒いのが立ってる』って。
……そうですか。
(沈黙)
……いや。
(小さく息を吸う音)
俺が見たのが間違いだったのかもしれない。あそこに、二人も要らなかっただけで。
工程には数が決まっているでしょう。余分は、出る。
あいつ、フォークリフトごとプレス機に突っ込んだんですよね。ブレーキが効かなかったって話ですが、俺は違うと思う。
最後に聞いた言葉があれなら、止まる理由がない。
『調整』です。
……一つだけ。
あの男、去り際に、首を傾げたんです。測り直すみたいに。
もし、指摘されていたのが俺だったとしたら。
(短い笑い声)
俺、まだ終わってない。
(録音終了)
【補記】
供述者S氏は本インタビュー翌日、自宅アパートの浴室で死亡しているのが発見された。死因はガス給湯器の不完全燃焼による一酸化炭素中毒。争った形跡はなく、事故として処理された。
浴室の鏡は全面が塗り潰され、反射するものがなかったという。
(了)