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短編 山にまつわる怖い話 n+2026

一歩先が無かった nc+

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谷川岳に行ったのは、私が小学生の頃だった。

群馬に住む母方の祖父母の家へ、両親と三人で出かけるのは年に数回の恒例だった。仏壇に線香をあげ、霊園で墓参りを済ませ、そのまま東京へ戻る。その途中で、どこか観光地に寄ることがあった。遊園地や花畑だったこともあるし、特に目的もなく「近いから」という理由で立ち寄った場所も多い。その日、車が向かったのが谷川岳だった。

本格的な登山をするような装備はしていなかった。短パンに運動靴、観光地に行くつもりの格好だ。ロープウェイにも乗っていない。駐車場から歩いて行ける範囲だけを、軽く見て回るつもりだったと思う。

天気は曇っていた。昼間なのに光が弱く、山全体が薄い灰色の膜に包まれているようだった。霧が出ていて、遠くの景色はほとんど見えない。私は親のそばを離れ、少し先を歩いていた。子どもだったが、知らない場所に来ると、なぜか一番前を歩きたくなった。

道は緩やかで、観光客も多かった。足元は整えられていて、危険な印象はない。振り返ると、父が母の手を取って歩いているのが見えた。その距離を確認するのが癖になっていて、少し進んでは振り返り、また進む。それを何度か繰り返していた。

やがて、道の終わりのような広い場所に出た。売店も展望台もなく、ただ開けた空間があるだけだ。ここから先へは行けない、と直感的に分かる場所だった。霧はそれまでより濃く、白いものが右から左へ、ゆっくりと流れていた。

私は霧に手を伸ばした。指先が濡れるだけで、掴めるものは何もない。それでも雲の中にいるような気分になり、少しだけ楽しかった。ただ、足元を見下ろすと、高さがあることははっきり分かる。ふざけていい場所ではないと、子どもなりに理解していた。

もう戻ろう、そう思って体の向きを変え、数歩進んだ。

その瞬間、前方にあるはずの地面が、消えていた。

一歩先は、何もなかった。正確には、地面ではなかった。足元から下へ、途方もない深さの断崖が広がっていた。霧の下は見えない。ただ、落ちたら終わりだということだけは、説明されなくても分かった。

数秒前まで、そこには平らな場所があったはずだった。人が立ち、歩いていたはずだった。視界が霧で遮られてはいたが、地面の存在は確かに感じていた。それが、まるごと切り取られたように、なくなっている。

体が固まった。後ろに下がることも、声を出すこともできない。目は奈落の底から離れず、足の裏の感覚だけが異様にはっきりしていた。

その断崖から、木が伸びていた。下から上に向かってではない。私の感覚では、真横だった。時計で言えば三時の方向。岩肌から水平に、数本の白っぽい木が突き出している。

上下左右の感覚が狂った。自分が立っている面が正しいのか、足元に広がる面が正しいのか、分からなくなった。山だからこういう生え方をするのだ、と無理に納得しようとしたが、どこかでおかしいと分かっていた。

その木々の間を、黒い影が動いていた。

人ではない。だが動きは人に似ている。猿のようにも見えるが、はっきりしない。影は複数あり、岩や木にしがみつくように、こちらへ向かってよじ登ってくる。距離感がおかしく、近いのか遠いのか分からない。それでも、近づいているという印象だけは強かった。

ここにいたら、足を掴まれる。そう思った瞬間、心臓が強く打った。掴まれたら引きずり落とされる。落ちた先は霧の中で、その下がどうなっているかは想像する必要もなかった。

助かる可能性とか、逃げ道とか、そういう考えは浮かばなかった。ただ、ここに立っていること自体が間違いなのだという感覚だけがあった。

次の記憶は途切れている。

気づいたとき、私は両親の間にいた。二人とも普通に歩いている。私の手を引くでもなく、声をかけるでもない。ただ、三人で駐車場へ向かって歩いていた。

道は霧が薄く、他の観光客もいた。さきほどまで見ていた断崖は見当たらない。あの広い場所も、どこにあったのか分からない。振り返っても、山肌と白い霧しか見えなかった。

車に乗り、エンジンがかかる音を聞いて、ようやく息ができるようになった。何かを話そうとしたが、言葉が出なかった。両親も何も言わなかった。山を出るまで、車内は静かだった。

その後、あの場所の話を家族でした記憶はない。私自身も、長い間思い出さないようにしていた。

大人になってから、ふとしたきっかけで谷川岳の名前を目にした。その瞬間、あの断崖と、横に伸びる木と、黒い影が一気によみがえった。

もし、あのとき一歩踏み出していたらどうなっていたのか。もし、影があと少し近づいていたらどうなっていたのか。そう考えると、今でも足の裏が冷たくなる。

なぜ無事に戻れたのかは分からない。両親に聞いても、特別なことは何もなかったと言う。ただ、私だけが、あの場所の存在を知っている。

あの谷底は、今も霧の向こうにある気がしてならない。私が気づいたから、覗き込んだから、そこに立ってしまったから、見えてしまっただけなのだと、そう思うことにしている。

[出典:144 :本当にあった怖い名無し:2021/05/05(水) 15:13:32.41 ID:hhv7/4tQ0.net]

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