これは、山村に住む老人から聞いた話だ。
その山の名は、土地の者でも口にするのを避けた。夜が深まる頃、遠くの山から声が響く。それは、重々しい男の声であったり、か細い女の声であったり、日によって様々だった。声の主は、村の者たちが知らぬはずのことばかり語り、時には村の古い悪事や役場の隠された施策を非難し始めた。内容は実に細かく、そして残酷に的を射ていた。
村では、その声を「告げ口山の声」と呼び、誰もが恐れていた。声が上がるたび、次にどんな恥が暴かれるか、家々の中では息を潜めて耳をそばだてる者が多かったという。
「誰かが山に潜んで叫んでいるに違いない」と、ある村人が周囲に言い始めたのは、数年前のことだ。だが、夜ごとにあの山から響く声は、拡声器などなくしては到底聞こえるものではなかった。何よりも、村の秘密を細部まで知る人間が、この村に一体どれだけいるのか。
一度だけ、数人の若い男たちが「声の主を探し出す」と言って、夜の山に入ったことがある。だが彼らは夜が明ける前に逃げ帰ってきた。「誰かがいる。近づこうとすると声は止み、気配だけが残るんだ」と彼らは震えながら言い、もう二度と山には入らなかった。
また、別の村人は、声を避けるために耳をふさいで山道を駆け下りたとも言う。まるで声を聞くことそのものが、罪に触れるような恐ろしさがあったのだ。
ある年の冬、村に新しく赴任してきた若い役場の職員がいた。山で声を聞いたことがあると村人から聞かされた彼は、面白半分に「試しに聞きに行ってみますよ」と軽口を叩いた。止める村人の制止も聞かず、その夜、役場の職員はひとり山に向かった。
翌朝、彼の姿はなかった。ただ、遠く山の上から「声」だけが響き続けていた。その声は、まるで彼自身の声に酷似していたという話だ。声は昼夜を問わず、役場の施策や村人の背信を批判し続けた。村人たちはその後も山に入ろうとしない。その若い職員の行方は、今でも誰も知らないままだ。