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馬がいない rw+1,711-0411

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あの夜のことを思い出すと、今でも胸の奥に冷たいものが落ちてくる。

数年前、顔見知りに連れられて、場末のスナックに入った。
カウンターの奥には派手なドレスの女がいて、連れは小声で、「この人、たまに変なのを拾う」と言った。
酔った客に合わせる冗談の類だと思っていた。

店内には、私たちのほかに客はいなかった。
女は最初、普通だった。水割りを作り、煙草に火をつけ、こちらの話にも適当に笑っていた。
だが、しばらくして、グラスを拭く手が止まった。

肩が細かく震えはじめた。
息の音が、急に深くなった。
伏せていた顔がゆっくり上がったとき、目つきが別人のものになっていた。

「……ここは、何処じゃ」

低い声だった。
さっきまでの女の声ではなかった。
年寄りとも若いともつかない、乾いた男の声だった。

女――いや、その中の何かは、落ち着きなく店の中を見回した。
棚に並んだ酒瓶を見て、眉をひそめる。
壁の鏡に映った自分の姿を見て、ぎょっとしたように一歩下がる。
それから天井のシャンデリアを見上げて、息を呑んだ。

「光っておる」
「何じゃ、あれは」
「火もないのに」

誰も口を挟めなかった。
冗談にしては、怯え方が本物すぎた。

連れが試しにウイスキーの瓶を見せると、そいつは目を細めて読めない文字を見るような顔をした。
グラスに少し注いで渡すと、匂いを嗅いだだけで顔をしかめた。
恐る恐る舐め、すぐに吐き出した。

「薬か」
「こんなものを飲むのか」

その言い方に、芝居めいた大げささはなかった。
本当に知らないものを知らないと言っているだけだった。

やがて、そいつはカウンターの内側から出てきた。
歩き方まで変わっていた。
裾をさばくような癖のある足運びで、床を一歩ずつ確かめるように踏んだ。
そのたびに、古いはずのない店の床が、みし、みし、と妙に湿った音を立てた。

「ここは……どこだ」
「おい、外はどうなっておる」

一人がふざけ半分でドアを開けた。
外にはネオンの看板が並び、向かいのビルの窓が白く光っていた。
車が一台、通りを流れていく。
それを見た瞬間、そいつは店の入口でぴたりと止まった。

肩が上がったまま、動かない。
逃げるでも、叫ぶでもなく、ただ立ち尽くしていた。
見えているものを理解できない人間の顔だった。

後ろから別のホステスが慌てて引き戻した。
そのとき、そいつの口がようやく開いた。

「わしは……馬子じゃ」

それだけ言って、急に力が抜けた。
膝から崩れ、そのまま床に倒れ込んだ。

誰かが救急車を呼ぶべきだと言い、誰かが店に警察を入れるなと言った。
結局、日本酒を少し口に含ませて、奥のソファに寝かせた。
店の女たちは、こういうことがたまにあるような顔をしていたが、それでも全員、青ざめていた。

一時間ほどして、彼女は目を覚ました。

目を開けた瞬間、まず自分の手を見た。
次に、店の天井を見た。
それから、ひどく怯えた声で、「戻った」と言った。

何に戻ったのか、その場では誰も聞けなかった。
彼女はそのまま声を上げて泣き出した。

後日、連れづてに聞いた話では、そのとき彼女には、自分がどこにいるのか分からなかったらしい。
白いものしかない場所にいて、足元の感覚もなかった。
遠くで水の音がした気がした。
しばらくして土の匂いがして、湿った空気に変わった。
何か大きなものがすぐ横を通り過ぎた気配があったのに、姿はよく見えなかった。
声を出しても、自分の声だけが近くで響いて、誰にも届かなかったという。

彼女はその話をしたあと、そこから先をどうしても言いたがらなかった。
思い出そうとすると、喉が詰まるのだと言った。

店も辞めたらしい。
もう二度と、夜の商売はできないと。

それきり私も忘れようとしていたのだが、半年ほどして、その店にいた別の女と偶然会った。
雑談のついでに、あの夜のことを聞くと、相手は嫌そうに黙り込んだ。
しばらくしてから、低い声で言った。

「あの子ね、戻ってから少し変だったの」
「何が」
「店の外を走る車を見て、何度か、馬がいないって言ったの」

冗談ではないらしかった。
その女は続けた。

「それだけならまだいいのよ。変なこと言ってる、で済むから」
「でも、鏡をいやがるようになったの」
「自分の顔が遅れてくるときがあるって」

私は何も言えなかった。

その話を聞いた帰り、駅前のガラスに自分の姿が映った。
立ち止まる気はなかったのに、なぜか足が止まった。
ほんの一瞬だけ、映った私の顔が、こちらを知らない目で見ていた気がした。

ただの見間違いだと思って、そのまま歩いた。
だが、その夜から、ときどき気になることがある。

照明の明るい店に入ったとき。
鏡の多い場所に立ったとき。
ガラス越しに自分の顔を見たとき。

先にこちらが見ているのか。
向こうが、遅れてこちらを思い出しているのか。
それが、たまに分からなくなる。

[出典:585 :あなたのうしろに名無しさんが……:04/05/31 16:14 ID:ICA9Zse2]

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