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中編 カルト宗教

宗教、このうえもなく恐ろしいもの【ゆっくり朗読】3200

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Yahoo知恵袋より

ID非公開さん;2020/9/5 17:19
ヨシュア記はありがたい聖典なんですか?
「皆殺しに」と何度も出てくるそうですが。
[出典:https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11231151671]

ベストアンサー
did********さん
2020/9/5 20:20

「ありがたい聖典」などといういやらしいものではなく、主なる神の御心を示す御言葉を記した聖書の一部です。
ヨシュア記が教えているように、私たちは神の敵を滅ぼし尽くさねばなりません。
あなたも自分の中の罪の力と戦うために、神の御子イエス・キリストを信じる必要があります。

カテゴリマスター
mji********さん
2020/9/5 19:16

七度目に、祭司が角笛を吹き鳴らすと、ヨシュアは民に命じた。「ときの声をあげよ。主はあなたたちにこの町をあたえられた。町とその中にあるものは悉く滅ぼしつくして主にささげよ。
金、銀、銅器、鉄器は全て主に捧げる聖なるものであるから、主の宝物蔵に収めよ。角笛が鳴り渡ると、民はときの声をあげた。民が角笛を聞いて、一斉にときの声をあげると、城壁が崩れ落ち、民はそれぞれ、その場から町に突入し、この町を占領した。彼らは、男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに至るまで町にあるものは悉く剣にかけて滅ぼしつくした。(ヨシュア記6章16〜21節)

主はヨシュアに言われた。「恐れてはならない。おののいてはならない。全軍隊を引き連れてアイに攻め上りなさい。アイの王も民も周辺の土地もあなたの手に渡す。その日の敵の死者は男女合わせて一万二千人、アイの全住民であった。ヨシュアはアイの住民をことごとく滅ぼし尽くすまで投げ槍を差し伸べた手を引っ込めなかった。
(ヨシュア記8章1〜26節)

ヨシュアは命じた。「洞穴の入り口を開け、あの五人の王たちを洞穴からわたしたちの前に引き出せ。」彼らはそのとおりにし、エルサレム、ヘブロン、ヤルムト、ラキシュ、エグロンの五人の王を洞穴から引き出した。五人の王がヨシュアの前に引き出されると、ヨシュアはイスラエルのすべての人々を呼び寄せ、彼らと共に戦った兵士の指揮官たちに、「ここに来て彼らの首を踏みつけよ」と命じた。彼らは来て、王たちの首を踏みつけた。ヨシュアは言った。「恐れてはならない。おののいてはならない。強く雄々しくあれ。あなたたちが戦う敵に対しては主はこのようになさるのである。」ヨシュアはその後、彼らを打ち殺し、五本の木にかけ、夕方まで晒しておいた。(ヨシュア記10章22〜26節)

ヨシュアは全イスラエルを率いてマケダからリブナへ向かい、これを攻撃した。主がこの町も王もイスラエルの手に渡されたので、剣を持って町を撃ち、その住民を一人も残さなかった。主がラキシュをイスラエルの手に渡されたので、二日目には占領し、剣を持って町の住民を全て撃ち、リブナと全く同じようにした。ヨシュアは全イスラエルを率いてラキシュから更にエグロンへ向かい、陣を敷いてこれと戦い、その日のうちに占領し、剣を持って町を撃ち、全住民をその日のうちに滅ぼし尽くし、ラキシュと同じようにした。ヨシュアはさらに、全イスラエルを率いてエグロンからヘブロンへ上り、これと戦って、占領し、剣をもって王と町全体を撃ち、全住民を一人も残さず、エグロンと同じようにした。彼はその町とその全住民を滅ぼし尽くした。ヨシュアは、山地、ネゲブ、シェフェラ、傾斜地を含む全域を征服し、その王たちを一人も残さず、息のある者を悉く滅ぼし尽くした。イスラエルの神、主の命じられたとおりであった。ヨシュアがただの一回の出撃でこれらの地域を占領し、全ての王を捕えることが出来たのは、イスラエルの神、主がイスラエルのために戦われたからである。これらの町々の分捕り品と家畜は悉く、イスラエルの人々が自分たちのために奪い取った。彼らはしかし、人間を悉く剣にかけて撃って滅ぼし去り、息のある者は一人も残さなかった。主がそのしもべモーセに命じられたとおり、モーセはヨシュアに命じ、ヨシュアはそのとおりにした。主がモーセに命じられたことで行わなかったことは何一つなかった。(ヨシュア記10章29節〜11章15節)
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これについてのキリスト教の説明。

神の摂理を知らない人は誰でも悪だというであろう。しかし、復帰摂理の立場で見ればそれは善であった。そればかりでなく、イスラエル民族が何の理由もなくカナンの地へ侵入して数多くの異邦人を全滅させたという事実も、神の摂理を知らない立場から見れば悪であるといわざるを得ない。しかし、これもやはり、復帰摂理 [神の救済史観] の立場から見れば善であったのである。カナン民族のなかに、イスラエル民族よりももっと良心的な人がいたとしても、当時の彼等はみな一律にサタンの側であり、イスラエルは一律に天の側であったからである。
(統一教会『原理講論』P542)

モアブの平原に宿営を張ったイスラエル人たちは、約束の地カナンに入る態勢を整えています。ヨルダンの対岸のその地域には、無数の小王国があり、それぞれが自ずからの軍隊を擁しています。それらは相互に反目し、多年にわたるエジプトの腐敗した支配によって弱体化しています。それでも、イスラエルの国民にとって、彼らの抵抗は手ごわいものがあります。その地を従えるためには、エリコ、アイ、ハツオル、ラキシュなど、城壁で防備を固めた都市を取らねばなりません。前途には難しい時期が控えています。決定的な戦いを行ない、しかもそれに勝たねばなりません。エホバ神ご自身がその民のために強力な奇蹟を持って進んで行かれます。それは、彼らをその地に定住させるというご自分の約束をなし遂げるためです。疑いもなく、ご自分の民に対するエホバの数々のご処置の中でも特に際立ったこれら興奮させる出来事はどうしても記録にとどめなければなりません。
(エホバの証人『聖書全体は神の霊感を受けたもので、有益です』
P42(ものみの塔))

ヨシュアとイスラエルの民は、神の直接の命令に従って行動したのであって、自分勝手な行動をしたのではありません。確かにエリコの壊滅はイスラエルの軍隊によってもたらされました。しかし、イスラエルの軍隊は単なる正義の道具にすぎないのであって、そこに住んでいた人々の罪を罰するために、全地上の最高裁判官である神によって使用されただけなのです。従って、彼らのやったことの正当性を疑う者は神の正義を疑うことになるのです。
(Norman Geisler and Thomas Howe, When Critics Ask, SP Publications, p138)米国ノースカロライナ州のサザン・エバンジャリカル神学校の二人の学者、ノーマン・ガイスラー博士とトーマス・ハウイ助教授による共著『When Critics Ask(聖書批判に答える)』

参考資料:日本人のための宗教原論/小室直樹

宗教、このうえもなく恐ろしいもの

宗教とはいかなるものか。宗教とは畢竟(つまり)、このうえもなく恐ろしいものなのだ。これが宗教理解の要諦(大切なところ)である。そして、アメリカやヨーロッパではこれが常識なのである。
ところが、日本人は宗教を自分や周囲の人間に幸せをもたらしてくれるなにやら素晴らしいものと独り合点しているようだ。その抱いている宗教家のイメージにしても、穏やかで美しくて、普通の人間よりは遥かに道徳水準が高くて、ちょっと煙たくて嫌らしいところがあるかもしれぬが、中身は高潔な人、と捉えている。これがまあ一般的なところだろう。
「この頃の宗教団体はがめつくなってきているから、多少の金の巻き上げ程度はやるかもしれないが、本当に悪いことはやらないだろう」と思っている。

サリンを作るなんて!
麻薬を作るなんて!
人を殺すなんて!

あの事件が起きるまでは、そんなことだけはやらないだろうと思っていただろうし、いまに至ってもあれは特殊な例だと思っている人がきっと多かろう。しかし、これこそが宗教誤解の第一歩である。

日本の宗教学者も宗教評論家も、果ては行政や警察も、根本的なところで宗教というものをご存じない。くどいほど何度も繰り返すのは、日本人が物事を表層的にしか捉えないことが多いからである。

一例を挙げる。
15世紀から17世紀後半にかけての大航海時代、コロンブス(イタリアの航海者。1451頃~
1506)やマゼラン (ポルトガルの探険家。1480頃~1552)が未知の国へ向けて航海した。
そこで新大陸に上陸した彼らは一体何をしたか。

正解は、罪もない現地人の皆殺し!大虐殺である。別に住民たちがこぞってこの侵入者たちを襲ったわけでもないのに。何と酷いいことをするのだ、と怒ってみても詮はない。侵入者たちのほうからすれば、キリスト教の教義に従って異教徒を殺したまでなので、後ろめたさなどあろうはずもないのだ。

筆者がかつてカリブ海の仏領(フランス領)マルティニーク島に行ったときのこと、大ナポレオンの妻ジョセフィーヌの故郷であるこの島の観光案内にはこう書いてあった。

「フランス人がこの島に上陸したとき、まずやったことは住民の皆殺しだった。生き残った者は一人もいなかった。それから、アフリカから奴隷を連れて来て植民地を作った」

と。正式の観光案内にそう書いてあるのだ。誰もが知っていることだから、隠す必要がない。また、欧米人は、宗教とはそういうものだと承知しているから、ことさら隠す必要もないのである。

プエルトリコの軍事資料館には、コロンブスが上陸した頃、この島の現地人をどのようにスペイン人が扱ったか、その図解が展示されている。現地人たちの首と両手両足を切り落とし、串ざしにして豚の丸焼きのごとく焼肉とした。まさに目をそむけずにはいられない残虐さだ。

こんな例は至るところにある。

「未開の地」に上陸したヨーロッパ人は、冒険家も宜教師も、罪もない現地人をバリバリ殺した。殺戮につぐ大殺戮である。

ではなぜそんなことをしたのか。何故に異教徒を殲滅(みなごろし)しなければならなかったのか。

その答えは「旧約聖書」の「ヨシュア記」を読むとわかる。
神父も牧師も、日本にキリスト教を伝えるものは、パウロの「ローマ人への手紙」だとか「創世記」の一部(もっとも第19章30~38は近親相姦のストーリーだから教えないが)だとか、日本人のセンスに都合のいい箇所は教えるけれども、「ヨシュア記」は教えない。

だが、この「ヨシュア記」にこそ〈宗教の秘密》は隠されているのだ。

神はイスラエルの民にカナンの地を約束した。ところが、イスラエルの民がしばらくエジプトにいるうちに、カナンの地は異民族に点領されていた。

そこで、「主(神)はせっかく地を約束してくださいましたけれども、そこには異民族がおります」といった。すると神はどう答えたか。

「異民族は皆殺しにせよ」と、こういったのだ。

神の命令は絶対である。絶対に正しい。

となれば、異民族は皆殺しにしなくてはならない。殺し残したら、それは神の命令に背いたことになる。それは罪だ。

したがって、「ヨシュア記」を読むと、大人も子供も、女も男も、一人残さず殺したという件がやたらと出てくる。

「イスラエルびとは、 荒野に追撃撃してきたアイの住民をことごとく野で殺し、つるぎをもってひとりも残さず撃ち倒してのち、皆アイに帰り、つるぎをもってその町を撃ち滅ぼした。その日アイの人々はことごとく倒れた。その数は男女あわせて一万二千人であった。ヨシュアはアイの住民をことごとく滅ぼしつくすまでは、なげやりをさし伸べた手を引っこめなかった」(第8章24~26)

これがジェノサイド(民族 皆殺し)事始。それから後は、殺すわ殺すわ、王とその町の住民を一人残らず皆殺しにするのである。女も男も、生まれたての赤ちゃんからヨボヨボの老人まで、例外はない。皆殺しにせよ! というのが神の命令だからだ。

このようにして、31の王とその町々がジェノサイドされたのであった(「ヨシュア記」第8章~第12章)。

異教徒の虐殺に次ぐ大虐殺、それは神の命令なのである。

神の命令だから虐殺する。

日本のクソ真面目な歴史家は、大航海時代の歴史を書くときに、「こんな善良な人々が、なぜこんな恥知らずな殺戮を行って良心が痛まないのか」と妄説(でたらめな説)を吐く。そんなもの、痛むはずがないのである。敬虔であればあるほど、異教徒は殺さなくてはならないのだから。

この意味においてはキリスト教は殺人宗教ではないか!

キリスト教は、「隣人に対する無条件の奉仕」を説く。この教義どおりに、無報酬で、全く見知らぬ人にかぎりなき奉仕をした人は実に多い。これも神の命令であるからだ。

が、無条件にジェノサイドする人も多い。「隣人にかぎりなき料仕をする人」が、同時に大虐殺を行っても矛盾ではない。両方とも神の命令であるからである。

「これほどまで崇高な人が、最低倫理以下のことをするとは…」と嘆くのは日本人の妄言(でたらめな言葉)であり、キリスト教への無知を告白するだけである。このことを、宗教を考える糸口としてみよう。

宗教という言葉

「宗教」という言葉は、明治になって「religion」の訳語として作られた新しい言葉で、もともとのレリジョンの意味は「繰り返し読む」ということ。

欧米人のほとんどはキリスト教こそが本当の宗教だと思っているから、宗教といえばキリスト教、そして文字で表された最高教典、すなわち啓典(正典ともいう)のある啓典宗教と考える。そこで、繰り返し読む、という発想が生まれる。

誕生したときから、もうそこにキリスト教があるわけで、日本人とは全く環境が違う。日本では、仏教的雰囲気、神道的雰囲気、近世以降は儒教的雰囲気が何となく混在しているという感じであろう。

そもそも明治以前には、仏教、キリスト教という用語も使われておらず、仏教は「仏法」として、キリスト教は「耶蘇(やそ)」あるいは「伴天連(ばてれん)」として、儒教は「儒学」という言葉で呼ばれていた。

内容も日本なりに変質をしてしまい、吸収されていったのだが、では、世界的に普及しているイスラム教、またインドで大きな勢力を持っているヒンドゥー教はどうだったか。

非常に不思議なことに、あれほど宗教的に優れているイスラム教は、中国や東南アジアまでは来ているのに、日本には入って来なかった。この驚くべき事実は、極めて重要なことのはずだが、誰も研究していないのも、これまた不思議。

***

もともとカナンにはイスラエルの民のために与えたかなりの土地があったのだが、飢饉を避けるために民はエジプトに逃げだした。ところが、そこでは奴隷になってしまい、「出エジプト記」に記されたように、もう一回カナンの地に帰ったところ、そこには他の民族が住み着いてしまっていた。さあどうするか。

神が下した命令は何かということが、「ヨシュア記」に書かれている。この「ヨシュア記」、日本では神父や牧師はほとんど教えない。なぜなら、イスラエルの民が神の命により、自らに与えられた地にすでに住んでいる民人を皆殺しにしてしまう、というストーリーだからである。共存したわけではないのだ。

以前にこの話を日本人学生に教えたところ、ものすごい反応を起こした。なかには、「イスラエル人は、昔そんな悪いことをしたんですか。だったらヒトラーに霊にされるのも当然かもしれませんね」と驚く人さえあった。日本人にとって、仏教の因果律がいかに身についているかがおわかりであろう。

それ以前に重大な問題としてあるのが、よい悪いの判断である。ユダヤ教を含む啓典宗教においては、神の欲することがよい、神が欲しないことが悪い、これが大原則である。神の命令は絶対正しい。

神が皆殺しにせよと命じたらそのとおりに皆殺しにしないといけない。例外を設けたり、許したりしたら、そんなことをした人が罰せられる。

いわば、神を基準とした以外の倫理観はありえないのである。先の日本人学生は、個人としての倫理観だとか、日本人としての倫理観があるので、「たとえ、神の命とはいえ、皆殺しはいけないことだ」などと考える。かくのごとく、日本人は初めから宗教には無縁な人たちといえよう。

 


 

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