036 師匠シリーズ「海」
大学二回生の夏。
俺は大学の先輩と海へ行った。
照りつける太陽とも水着の女性とも無縁の薄ら寒い夜の海へ。
俺は先輩の操る小型船の舳先で震えながら、どうしてこんなことになったのか考えていた。
眼下にはゆらゆらと揺らめく海面だけがあり、その深さの底はうかがい知れない。
ときどき自分の顔がぐにゃぐにゃと歪み、波の中にだれとも知れない人の横顔が見えるような気がした。
遠い陸地の影は不気味なシルエットを横たえ、時々かすかな灯台の光が緞帳のような雲を、空の底に浮かび上がらせている。
「海の音を採りに行こう」という先輩の誘いは、抗いがたい力を秘めていた。
オカルト道の師匠でもあるその人のコレクションの中には、あやしげなカセットテープがある。
聞かせてもらうと、薄気味の悪い唸り声や、すすり泣くような声、どこの国の言葉とも知れない囁き声、そんなものが延々と収録されていた。
聞き終わったあとで「あんまり聞くと寿命が縮むよ」と言われてビビリあがり、もう二度と聞くまいと思うが、しばらくすると何故かまた聞きたくなるのだった。
うまく聞き取れないヒソヒソ声を、「何と言っているのだろう」という負の期待感で追ってしまう。
そんな様子を面白がり、師匠は「これは海の音だよ」と言って、夜の海へ俺を誘ったのだった。
知り合いのボートを借りた師匠が、慣れた調子でモーターを操って海へ出た頃には、すでに陽は落ちきっていた。
フェリーならいざ知らず、こんな小さな船で海上に出たことのなかった俺は、初めから足が竦んでいた。
「操縦免許持ってるんですか?」と問う俺に、
「登録長3メートル以下なら、小型船舶操縦免許はいらない」と嘯いて、師匠は暗く波立つ海面を滑らせていった。
どれくらい沖に出たのか、師匠はふいにエンジンを止めて、持参していたテープレコーダーの録音ボタンを押した。
風は凪いでいた。
モーターの回転する音が止むとあたりは静かになる。
いや、しばらくするとどこからともなく、海の音とでもいうしかないザワザワした音が漂ってきた。
潮に流されるにまかせてボートは波間に揺れている。
船首から顔を出して海中を覗き込んでいると、底知れない黒い水の中に、魚の腹と思しき白いものが、時々煌いては消えていった。
師匠は黙ったまま水平線のあたりをじっと見ている。横顔を盗み見ても何を考えているのかわからない。
微かな風の音が耳を撫でていき、船底から鈍く響いてくるような海鳴りが、どうしようもなく心細く孤独な気分にさせてくれる。
「採れてるんですかね」と言うと、口に指を当てて「シッ」という唇の動きで返された。
何か聞こえるような気もするが、はっきりとはわからない。
そもそも、海の上でいったい何があのテープのような囁きを発するのか。
俺はじっと耳を澄まして、闇の中に腰をおろしていた。
どれくらいたったのか、ざあざあという生ぬるい潮風に顔を突き出したままぼーっとしていると、ふいに人影のようなものが目の前を横切った。
思わず目で追うと、たしかに人影に見える。漂流物とは思わなかった。
なぜならそれは、子供の背丈ほども海面に出ていたからだ。
俺は固まったまま動けない。
ただゆらゆら揺れながら遠ざかっていく暗い人影から目を離せないでいた。
海の只中であり、樹や、まして人間が立てるような水深のはずがない。
視界は狭く、ゆっくりと人影は闇の中へ消えていったが、俺は震える声で「あれはなんでしょうか」と言った。
師匠は首を振り、「海はわからないことだらけだ」とだけ呟いた。
懐中電灯をつけたくなる衝動にかられたが、なにか余計なものを見てしまう気がして出来なかった。
ガチンという音がして、アナクロなテープレコーダーの録音ボタンが元にもどった。
自動的に巻き戻しがはじまり、シャァーという音がやけに大きく響く。
師匠がテレコの方へ移動する気配があり、わずかに船が揺れた。
「聞いてみる?」
そんな声がした。
ここで?
俺は無理だ。俺や師匠の部屋ならいい。いや、あえていえば、普通の心霊スポットくらいなら大丈夫だ。
しかしここは、陸地から離れて波間に漂うここは、海面より上も下も人間の領域ではないという皮膚感覚があった。
『三界に家無し』という単語がなぜか頭に浮かび、頼るもののない心細さが猛烈に襲ってきた。
なにかが気まぐれにこの小さな船をひっくり返しても、この世はそれを許すような、そんな意味不明の悪寒がする。
そんなことを考えながら、船のヘリを渾身の力で掴んだ。
そんな俺にかまわず、師匠はガチャリとボタンを押し込んだ。
思わず耳を塞ぐ。
バランスが崩れないよう足を広げて踏ん張ったまま、俺の世界からは音が消えて、テレコの前に屈みこんだままの師匠が、停止ボタンを押されたように動かなくなった。
俺はその姿から目を離せなかった。
胸がつまるような潮の生臭さ。板子一枚下は地獄。
ああ、漁師にとってのあの世は海なんだな、と思った。
波に合わせて揺れる師匠の肩口に、人影のようなものが見えた。
ふたたび海に立つ影が、船のすぐ真横を横切ろうとしていた。
顔などは見えない。どこが手で、足でという輪郭すらはっきりわからない。
ただそれが、人影であるということだけがわかるのだった。
師匠がそちらを向いたかと思うと、いきなり何事か怒鳴りつけて船から半身を乗り出した。凄い剣幕だった。
船が一瞬傾いて、反射的に俺は逆方向に体を傾ける。
人影は立ったまま闇の中へ消えていこうとしていた。
師匠は乗り出していた体を引っ込め、船尾のモーターに取り付いた。
俺はバランスを崩し、思わず耳を塞いでいた両手を船の縁につく。
なんだあれ、なんだあれ。
師匠は上気した声でまくしたて、エンジンをかけようとしていた。
回頭して戻る気だ。そう思った俺は、その手にしがみついて「ダメです帰りましょう」と叫んだ。
師匠は俺を振りほどいて言った。
「あたりまえだ、つかまってろ」
すぐにエンジンの大きな音が響き、船は急加速で動き始めた。
塩辛い飛沫が顔にかかるなかで、俺は眼鏡を乱暴に拭きながら、かすかに見える灯台の光を追いかける。
後ろを振り返る勇気はなかった。
後日、師匠が「あのときの録音テープを聞かせてやる」と言った。
結局、俺はまだ聞いてなかったのだ。喉元すぎればというやつで、ノコノコと師匠の部屋へ行った。
「ありえないのが採れてるから」
そんなことを言われては聞かざるを得ない。
テーブルの上にラジカセを置いて再生ボタンを押すと、くぐもったような波の音と風の音が遠くから響いてくる。
耳を近づけて聞いていると、そのなかに混じってなにか別の音が入っているような気がした。
ボリュームを上げてみると確かに聞こえる。
ざあざあでもごうごうでもない、なにか規則正しい音の繋がり。それが延々と繰り返されている。
もっとボリュームを上げると、音が割れはじめて逆に聞こえない。
上手く調整しながらひたすら耳を傾けていると、それは二つの単語で出来ていることがわかった。
人の声とも自然の音ともとれる、なんとも言えない響き。
その単語を聞き取れた瞬間、俺は思わず腰を浮かせて息をのんだ。
それは紛れもなく、俺と師匠の名前だった。
037 師匠シリーズ「怖い夢」
幽霊を見る。大怪我をする。変質者に襲われる。
どんな恐怖体験も、夜に見る悪夢一つに勝てない。
そんなことを思う。
実は昨日の夜、こんな夢を見たばかりなのだ。
自分が首だけになって、家の中を彷徨っている。
なんでもいいから今日が何月何日なのか知りたくて、カレンダーを探している。
誰もいない廊下をノロノロと進む。
その視界がいつもより低くて、ああ自分はやっぱり首だけなんだと思うと、それがやけに悲しかった。
ウオーッと叫びながら台所にやってくると、母親がこちらに背を向けて流し台の前に立っている。
ついさっきのことなのに何故かもう忘れてしまったが、俺はなにか凄く恐ろしいことを言いながら母親を振り向かせた。
するとその顔が。
だった。
という夢。
こんな夢でも、体験した人間は身も凍る恐怖を味わう。
しかし、それを他人に伝えるのは難しい。
四時間しか経っていないのに、すでに目が覚める直前のシーンが思い出せない。
けれど、怖かったという感覚だけが澱のように残っている。
そんな恐怖を誰かと共有したくて、人は不完全な夢の話を語る。
しかし上手く伝えられず、『怖かった』という主観ばかり並べ立てる。
えてしてそういう話はつまらない。もちろん怖くもない。
それを経験上わかっているから、俺はあまり怖い夢の話を人に語らない。
いや、違うのかもしれない。
怖い夢を語るというのは、人前で裸になるようなものだと、心のどこかで思っているのかもしれない。
それは情けなく、恥ずべきものなのだろう。
夢の中の恐怖の材料は、すべて自分自身の投影にすぎない。
結局、自分のズボンのポケットに入っているものに怯えるようなものなのだから。
大学二回生の春。
俺は朝からパチンコに行こうと身支度を整えていた。目覚まし時計まで掛けて、実に勤勉なことだ。
その情熱のわずかでも大学の授業へ向ければ、もっとましな人生になったかと思うと少し悲しい。
ズボンを履こうとしているときに電話が鳴り、一瞬びくっとしたあと受話器をとると、『すぐ来い』という女性の声が聞こえてきた。
オカルト仲間の京介さんという人だ。『京介』はネット上のハンドルネームである。
困りごとがあってこっちから掛けることはよくあったが、あちらから電話を掛けてくるなんて実にめずらしかった。
俺はパチンコの予定をキャンセルして、京介さんの家へ向かった。
何度か足を踏み入れたマンションのドアをノックすると、禁煙パイポを咥えた京介さんがジーンズ姿で出てきた。
いったい何事かとドキドキしながら、そして少しワクワクしながら部屋に上がり、ソファに座る。
「まあ聞け」と言って京介さんは、テーブルの椅子にあぐらをかき語り始めた。
「すげー怖いことがあったんだ」
声が上ずり落ち着かないその様子は、いつもの飄々とした京介さんのイメージとは違っていた。
「一人でボーリングしてたら、やたらガーターばっかりなんだ。なんでこんな調子悪いかなと思ってると、トイレの前で誰かが手招きしてるんだよ。なんだあれって思いながら続けてると、またガーター連発。知らないだろうけど私、アベレージで180は行くんだよ。
ありえないわけ。それでまたちらっとトイレの方を見たら、誰かがすっと中に消えるところだったんだけど、その手がヒラヒラまた手招きしてる。気になってそっちへ行ってみたら、清掃中って張り紙がしてあった。でも確かにナカに誰か入っていったから、かまわずズカズカ乗り込んだら、ナカ、どうなってたと思う。
女子トイレだったはずなのに、なぜか男子トイレで、しかもゾンビみたいなやつらが、便器の前にずらっと並んでるわけ。
それも行列を作って。パニックになって私が叫んだら、そいつらが一斉にこっちを振り向いて、『見るなコラ』みたいなことを言いながら、こっちに近づいて来ようとし始めたんだよ。目なんか半分垂れ下がってるやつとかいるし。そいつらがみんな皮がズルズルになった手を、こう、ぐっと伸ばして……」
そこまで聞いて、俺は京介さんを止めた。
「ちょっと、ちょっと待ってください。それってもしかして、ていうか、もしかしなくても夢ですよね」
「そうだよ。すげー怖い夢」
京介さんは両手を胸の前に伸ばした格好のままできょとんとしていた。
そのころから、他人の夢の話は怖くないという達観をしていた俺は、尻のあたりがムズムズするような感覚を味わっていた。
自分の見た怖い夢の話をする人は、相手の反応が悪いとやたら力が入りはじめ、余計に上滑りをしていくものなのだ。
「まあ聞けよ。そのゾンビどもから逃げたあとが凄かったんだ」
話を無理やり再開した京介さんの冒険談を、俺は俯いてじっと聞いていた。
この人は朝っぱらから、自分の見た怖い夢を語るために俺を呼び出したらしい。
まるっきりいつもの京介さんらしくない。いや、京介さんらしいのか。
夢の話は続く。
俺は俯いたまま、やがて涙をこぼした。
「……それで、自分の部屋まで逃げてきたところで、て、おい。なんで泣く。おい。泣くな。なんで泣くんだ」
俺は自然にあふれ出る涙を止めることができなかった。
視線の端には水が抜かれた大きな水槽がある。京介さんを長い間苦しめてきたその水槽が。
「泣くなってば、おい。困ったな。泣くなよ」
俺はすべてが終わったことを、そのとき初めて知ったのだった。
去年の夏から続く、一連の悪夢が終わったことを。
結局俺は最後は蚊帳の外で。なんの役にも立てず。
京介さんや彼女を助けた人たちの長い夜を、俺は翌朝のパチンコをする夢で過ごしていたのだった。
「まいったな。泣くほど怖いのか。こどもかキミは」
泣くほど情けなくて、恥ずべきで、そして、ポケットに入れた魔除けのお守りをすべて投げ出したくなるほど嬉しかった。
京介さんが夢を見た朝が、どうしようもなく嬉しかった。
038 師匠シリーズ「声」
大学二回生の春だったと思う。
俺の通っていた大学には、大小数十のサークルの部室が入っている3階建てのサークル棟があった。
ここでは学生によるある程度の自治権が守られ、24時間開放という夢のような空間があった。
24時間というからには24時間なわけで、朝まで部室で徹夜マージャンをしておいて、そこから講義棟に向かい、授業中たっぷり寝てから、部室に戻ってきてまたマージャンなどという、学生の鑑のような生活も出来た。
夜にサークル棟にいると、そこかしこの部屋から酒宴の歓声やら、マージャン牌を混ぜる音やら、テレビゲームの電子音などが聞こえてくる。
どこからともなく落語も聞こえてきたりする。
それが平日休日の別なく、時には夜通し続くのだ。
ある夜である。
いきなり耳をつんざく悲鳴が聞こえた。
初代スーパーマリオのタイムアタックを延々とやっていた俺は、コントローラーを握ったまま部室の中を見回す。
数人のサークル仲間が思いおもいのことをしている。誰も無反応だった。
「今、悲鳴が聞こえませんでした」と聞いたが、漫画を読んでいた先輩が顔を上げて、「エ?」と言っただけだった。
気のせいかとも思えない。
サークル棟すべてに響き渡るような凄い声だったから。
そしてその証拠に、まだ心臓のあたりが冷たくなっているな感覚があり、鳥肌がうっすらと立ってさえいる。
部室の隅にいた先輩が片目をつぶったのを、俺は見逃さなかった。
その瞬間に、俺は何が起こったのか分かった気がした。
その先輩のそばに寄って、「なんなんですかさっきの」と囁く。
俺のオカルトの師匠だ。この人だけが反応したということは、そういうことなのだろう。
「聞こえたのか」と言うので頷くと、「無視無視」と言ってゴロンと寝転がった。
気になる。
あんな大きな声なのに、ある人には聞こえてある人には聞こえないなんて普通ではない。
俺は立ち上がり、精神を研ぎ澄まして、悲鳴の聞こえてきた方角を探りながら部室のドアを開けた。
師匠がなにか言うかと思ったが、寝転がったまま顔も上げなかった。
ドアから出て汚い廊下を進む。
各サークルの当番制で掃除はしているはずなのだが、長年積み重なった塵やら芥やらゲロやら涙やらで、どうしようもなく煤けている。
夜中の1時を回ろうかという時間なのに、廊下の左右に並ぶ多くの部室のドアからは光が漏れ、奇声や笑い声が聞こえる。
誰もドアから顔を出して悲鳴の正体をうかがうような人はいない。
その中を、確かに聞こえた悲鳴の残滓のようなものを追って歩いた。
そしてある階の端に位置する空間へと足を踏み入れた瞬間、背筋になにかが這い上がるような感覚が走った。
やたら暗い一角だった。
天井の電灯が切れている。もとからなのか、それとも、さっきの悲鳴と関係があるのかは分からない。
いずれにしても、ひとけのない廊下が闇の中に伸びていた。
背後から射す遠くの明かりと遠くの人のざわめきが、その暗さ静けさを際立たせていた。
かすかな耳鳴りがして、俺は『ここだ』という感覚を強くする。
このあたりには何のサークルがあっただろうと考えながら、足音を消しながら歩を進めていると、一番奥の部室のドアの前に人が立っているのに気がついた。
向こうも気づいたようで、こちらを振り返った。
薄暗い中を恐る恐る近づくと、それは髪の長い女性で、不安げともなんともつかない様子で立っているのだった。
「どうしたんですか」と声を殺して聞くと、彼女はなにか合点したように頷いた。
たぶん彼女も反応したのだ。バカ騒ぎする不夜城のなかで、わずかな人にしか聞こえなかった悲鳴に。
顔色を伺うが、暗さのせいで表情まではわからない。
「俺も、聞こえました」
仲間であることを確認したくてそう言った。
「ここだと思いますけど」
女性のかぼそい声がそう答えて、俺は視線の先のドアを見た。
プレートがないので、何のサークルかはわからない。
頭の中でサークルの配置図を思い浮かべるが、この辺りには普段用もないので、靄がかかったように見えてこない。
ドアの下の隙間からは明かりも漏れておらず、中は無人のようだったが、ビクビクしながらドアに耳をくっつけてみる。
なにも聞こえない。
地続きになっている遠くの部屋で、誰かが飛び跳ねているような振動をかすかに感じるだけだった。
頭をドアから離すと、無駄と知りつつノブを握った。
カチャっと音がしてわずかにドアが動いた。
驚いて思わず飛びずさる。
開く。カギが掛かっていない。このドアは開く。
後ずさる俺に合わせて、女性も壁際まで下がっている。
心音が落ち着くまで待ってから、「どうします」と小声で言うと、彼女は首を横に振った。
おびえているのだろうか。
しかし去ろうともしない。
俺はなにか義務感のようなものに駆られて、ふたたびドアへ近づく。
ノブに手をかけて深呼吸をする。
あの悲鳴を聞いたときの心臓が冷えるような感覚が蘇って、生唾を飲んだ。
このドアの向こうに悲鳴の主か、あるいは関係する何かがある。そう思うだけで足が竦みそうになる。
「開けますよ」と彼女に確認するように言った。
でもそれはきっと、自分自身に向けた言葉なのだろう。
目をつぶってノブを引いた。
いや、つぶったつもりだった。しかしなぜか俺は、目を開けたままドアを開け放っていた。
吸い込まれそうな闇があり、その瞬間、彼女が俺の背後で「キャーッ!!」という絶叫を上げたのだった。
寿命が確実に縮むような衝撃を受けて、俺はそれでもドアノブを離さなかった。
室内は暗く何も見えない。
暗さに慣れたはずの目にも見えないのに、一体彼女は何に叫んだのか。
じっと闇を見つめた。
中に入ろうとするが、磁場のようなものに体が拒否されているように動けない。
いや、たんにビビッていただけなのだろう。
俺はしばらくそのままの姿勢でいたが、やがて首だけを巡らせて後ろを向こうとした。
一体彼女は何に叫んだのか。
そのとき、あることに気がついた。
この廊下の一角はあまりに静かだった。やってきたときと変わらずに。
さっきの彼女の叫び声に、このサークル棟の誰も様子を見に来ない。
中途半端な位置で止まった頭のその視線の端で、彼女が壁際に立っているのが見える。
しかしその姿が、薄闇の中に混じるように希薄になって行き、俺の視界の中で音も無く、さっきまで人だったものが『気配』になっていこうとしていた。
ドアの向こうの闇から、なにか目に見えない手のようなものが伸びてくるイメージが頭に浮かび、俺はドアノブから手を離して逃げた。
背後でドアが閉じる音が聞こえ、彼女の気配がその中へ消えていったような気がした。
自分の部室に戻ると、みんなさっきと同じ格好で同じことをしていた。
胸を押さえて座り込むと、師匠が薄目を開けて「無視しろって言ったのに」と呟いてまた寝はじめた。
マリオはタイムオーバーで死んでいた。
その後、ときどきあのサークル棟の端の一角を気にして、通りすがりに廊下から覗き込むことがあった。
昼間は何事もないが、ひとけのない夜には、あのドアの前のあたりに人影のようなものを見ることがあった。
しかし、大学を卒業するまで、もう二度と近づくことはなかった。
(了)
怪談実話無惨百物語はなさない [ 黒木あるじ ]