044 師匠シリーズ「跳ぶ」
俺は子供のころからわりと霊感が強い方で、いろいろと変な物を見ることが多かった。
大学に入り俺以上に霊感の強い人に出会って、あれこれくっついて回っているうちに、以前にも増して不思議な体験をするようになった。
霊感というものは、より強いそれに近づくことで共振現象を起こすのだろうか。
いつか俺が師匠と呼ぶその人が、自分の頭に人差し指をあて、「道が出来るんだよ」と言ったことを思い出す。
大学二回生の夏。
そのころ俺は師匠に紹介されて、ある病院で事務のバイトをしていた。
そこで、人の死を見取った看護師が、死者の一部を体に残したままで歩いているのを何度も見た。
霊安室の前を通ったとき、この世のものではない声に呼び止められたりもした。
その話を俺から聞いた師匠は、満足げに「それは大変だなぁ」と言い、しばらくなにか考えごとをするように俯いていたかと思うと、「ゲームをしないか」と顔を上げた。
よからぬことを考えているのは明白だったが承知した。
どんなことを考えているのか知らないが、絶対にろくな目にあわないことはわかっている。
けれどそのころ、そんなことが俺のすべてだった。
深夜。土曜日にも関わらず、俺は師匠とともに大学構内に入り込んでいた。
平日にすらめったに足を踏み入れない不真面目な学生だった俺は、黒々とそびえる夜の校舎の中を縫うように歩いてるということに、変な高揚を覚えていた。
別に夜中でも構内は立ち入り禁止ではないし、校舎によっては研究室らしき一室の窓に、まだ明かりが点っているところもある。
けれど、こんなところで人とすれ違ったら気まずいだろう。そう思い、声も立てずに足音も忍ばせて進む。
やがて師匠は、一つの建物の下で足を止めた。
なじみのない他学部のブロックであり、一体なんの校舎なのかわからなかったが、師匠は勝手を知った様子で建物の裏に回った。
一層の暗がりの中でゴソゴソとなにかをしていたかと思うと、カラカラという乾いた音とともに一つの窓が開いた。
師匠はまるでコントのスパイのように、わざとらしく『来い』という合図をする。なんだか可笑しかった。
うちの学部棟にもこんな抜け道がある。代々の先輩から受け継ぐ夜専用の進入路。
どこも同じだなあと思いながら、師匠に続いて窓から体を滑り込ませる。
何も言ってないのに「シー」と囁くと、師匠は暗闇の中を手探りで進んだ。
廊下もなにもすべて真っ暗で、遠くに見える非常口の緑色がやけに心細い気持ちにさせる。
階段を何度か上り、小さなドアの前に立った。
開けると、一瞬夜風が顔を吹き抜けた。
屋上に出た。
いちめんの星空だった。
二人の他はだれもいない。ただ風だけが吹いていた。
「こういうのって、学生ってカンジがしませんか」
そんな俺の言葉にピンとこない様子で師匠は空返事をしながら、屋上のフェンスから下を覗き込む。
俺は妙にはしゃいでそこらを走り回った。
これであと何人かいて、バスケットボールでもあれば完璧だなぁと思った。
「ちょっとそこでジャンプしてみ」
いつのまにか壁際にもたれかかるように座り込んでいた師匠がそう言った。
言われたとおり、垂直跳びの要領でジャンプする。
ゲームとやらがはじまったらしい。
俺は変なテンションで、続けざまに飛び跳ねる。
「おいおい、もういい。もういい」
苦笑した師匠に一度止められ、次に「今度は目をつぶって跳んでみ」と指示を受けた。
目をつぶる。
跳ぶ。
着地の瞬間にバランスを崩しそうになり、そのまましゃがみこむ。
「そうそう。そんな風に地面につく瞬間に体を縮めて、出来るだけ滞空時間を長くしてみて」
何度もそのやり方で跳ばされた。
その次の指示には驚いた。
校舎の縁に立てというのである。
落下防止のフェンスのない部分があり、その前に立たされた。もちろん下は奈落の底だ。
「じゃあ、目をつぶったままそこで跳んで」
縁に立つと、垂直跳びでも怖い。少しバランスを崩せば落ちかねない。
そんな俺の躊躇いを見透かしたように、「後ろに跳んでいいから」と師匠が声を掛けた。
それならまあ出来ないこともない。
夜に切り取られたような校舎の縁の前に立ち、目をつぶる。つぶった瞬間に膝がぐらりとした。
数十センチ先に断崖がある。考えないようにしても想像してしまう。
それでも、まだこの不思議なゲームを楽しむ余裕があった。
反動をつけ、掛け声をあげて後方に跳ぶ。着地し、そのまま転びそうになる。
「もう一度」という声に従う。
五回も繰り返すと慣れてきた。
よほどの突風でも吹かない限り落下することはないし、今日の風は吹いても微風だ。
そう思っていると、師匠が「次は難しいぞ」と言った。
「その場で目をつぶったまま体を回転させ、方角をわからなくしろ」と言うのである。
殺す気か。
俺がそう突っ込む前に、「跳ぶ前に声をかけるから」と言ってきた。
「それに縁に立って回るのが怖かったら、しゃがんだまま回ってもいい」
ドキドキしてきた。
いったいなにをさせる気なんだ。
それでも言うとおりにした。まだブレーキを踏むには早い。そんな気がする。
縁の前にしゃがみ込み、目をつぶったまその場でぐるぐると回る。
怖いので、両手を地面に触れるようにしながら。
十何回転かすると、すっかり方角がわからなくなった。
いったい断崖がどの方向にあるのか。
そう考えたとき、締め付けられるように心細くなった。
座ったままだというのに、足元が今にも崩れ去りそうな頼りなさ。
目を開けたい。その衝動と戦った。
やがて打ち勝ち、恐々ながら立ち上がる。
いつの間にか風が止んでいる。昼間ならば目を閉じていても感じる太陽も、今ここにはない。
本当に方向がわからない。
方向はわからないけれど、数歩先には確かに人の命をあの世まで引っ張り込む断崖がある。
立っているだけでどうしようもない恐怖心が襲ってきた。
座ろうか。
その誘惑に負けそうになったとき、師匠の声がした。
「ようし、こっちだ。跳べ」
確かにその声は正面から聞こえた。ほぼ真正面。
その瞬間に、右も左もない暗闇の世界で自分のいる座標が決定されたような、一種のカタルシスがあった。
震えていた膝が伸びる。
これならいける。
目を閉じたまま体を沈ませ、前方に跳ぶための力を溜め込む。
その時、頭の中にイメージが浮かんだ。
闇に切り取られた断崖の向こう。
師匠が虚空にふわふわと浮かんで嗤っている。
バカか。
その悪夢のようなイメージを頭から振り払おうとする。
正面だ。真正面に跳べばなんてことない。
自己暗示をかけながら、俺は歯を食い縛って暗闇の中に跳躍した。
白い線で脳裏に絵を描く。
俺は師匠のいる方向に数十センチ跳び、やがて屋上のコンクリートに足から落ちていく。
その白い線で出来た地面にイメージの俺が着地したとき、本物の足にはまだ着地の衝撃はなかった。
一瞬。
白い線でできた世界は消え去り、巨大な穴のような断崖が足元にぽっかりと口を開けた。
恐慌が全身に広がる前に下半身へ衝撃がきた。
着地。
膝をつき両手をつく。
目を開けると、師匠が哲学者のような表情で腕を組んでいる。
「いま、落ちるのが遅く感じなかったか」
俺は脳の中を覗かれたような気持ち悪さに襲われながら、それでも頷く。
「死ぬ直前に、過去が走馬灯のように蘇るって聞いたことがあるだろう。時間の流れなんて、頭蓋骨という密室に閉じ込められた脳味噌にとっては、相対的なものでしかない。極限のコンセントレーションの元では、時間は緩やかに流れる。これは、プロスポーツの世界を例にあげるまでもなく理解できるだろう」
言わんとしていることはわかる。
恐怖心もまた、コンセントレーションの要因なのだろう。
「このゲームの面白いところは、着地するタイミングが本来のそれよりズレた瞬間に、屋上からの転落という事態を想起させることにある。そしてわずかに遅れて、イメージではなく本当の自分自身が着地する。不可避の死からの生還。このコンマ何秒の世界に、生と死と再生が詰まっている」
淡々と語るその顔に、喜びと翳りのようなものが混在しているように見えた。
「じゃあもう一度」
言われるがままに再び目をつぶる。しゃがんでくるくると回る。立ち上がる。
「こっちだよ」
右前のあたりから声が聞こえた。そちらへ向かって跳ぶ。
地面がない。
死ぬ。
そう思った瞬間に着地する。
なぜか泣きそうになった。こんなゲームを面白いと感じる自分自身が怖くなる。
風は凪いだままだった。
「もう一度」
だれもいない深夜の校舎の屋上で二人、生と死と、そして再生を繰り返している。
気がつくと仰向けにひっくり返って、満天の星空を見上げながら涙を流していた。
デネブ
ヴェガ
アルタイル
夏の大三角形がいびつにぼやけて見えた。
師匠の顔がそれにかぶさり、「次が最後だ」と言った。
俺はのろのろと起き上がり、屋上の縁に立つ。しゃがまなくても回れた。
再び世界は暗闇に閉ざされ、自分の位置がつかめなくなる。
そして闇を切り裂く一筋の光のような、その声を待つ。
…………
声はない。
静かだ。
いつまで待っても声はなかった。
賭けろというのだろうか。
たったひとつしかない自分の命を。二分の一に。
想像する。ここまま跳べば、相対的な着地時間はいままでよりはるかに長くなるだろう。
それは、自由落下運動の方程式から導き出される地上までの時間と、きっと等しいはずだ。
いや、ひょっとするともっともっと長く、このささやかな人生を振り返れるくらいに、長い落下になるのかも知れない。
師匠はもし今俺が断崖に正対して立っていたら止めてくれるだろうか。
答えがないのが、このまま跳べば大丈夫だという答えそのものなのだろうか。
薄目を開けたくなる衝動に襲われる。
だがそれをすれば、あの生と死と再生の快感は消え去るだろう。
その刹那の時間は抗いがたい蠱惑的な魅力を秘めている。
跳ぶか、跳ばざるか。
沈黙する宇宙で孤独だった。
やがて時間が過ぎ、俺はゆっくりと目を開けた。
その前に広がっていた景色は、いまだに俺の脳裏に焼きついて離れないでいる。
結局、どんなに霊感が上がって別の世界を覗き見ることが出来ても、俺の辿り着ける場所は限られている。
その先には底知れない断崖があり、その向こうに広がる世界にいる人にはけっして近づけない。それを知った。
その日、立ち尽くす俺に「帰ろう」と言った師匠は、優しく、冷たく、そしてどこか悲しげな目をしていた。
045 師匠シリーズ「雨上がり」
昨日から降っていた雨が朝がたに止み、道沿いにはキラキラと輝く水溜りがいくつもできていた。
大学二回生の春。梅雨にはまだ少し早い。
大気の層を透過してやわらかく降り注ぐ光。
軽い足どりで歩道を行く。
陽だまりの中にたたずむようにバス停があり、ふっと息を吐いて木目も鮮やかなベンチに腰を掛ける。
端の方にすでに一人座っている人がいた。
一瞬、知っている人のような気がして驚いたが、すぐに別人だとわかり深く座りなおす。
髪型も全然違う。それにあの人がここにいるはずはないのだから。
バスを待つ間、あの人に初めて会ったのは今ごろの季節だっただろうかと、ふと思う。
いや、確かもう梅雨が始まっていたころだった。一年たらず前。
彼女は別の世界へ通じるドアを開けてくれた人の一人だった。
そのドアを通して、普通の世界に生きている人間が、何年掛かったって体験できないようなものを見たり、味わったりしてきた。
もちろんドアなんてただの暗喩だ。けれどそれが、そこにあるもののよう感じていたのも事実だった。
そのドアのひとつが閉じた。もう開くことはないだろう。
春が来たころひっそりと仕舞い込まれる冬色の物のように、彼女は去っていった。
そのことを思うと、ひどく感傷的になる自分がいる。
結局、気持ちを伝えることはできなかった。
それが心の深い場所に澱のように溜まり、そして渦巻いている。
目の前でカラスが一羽、鳴いて飛び立った。
だれも通る者もいない春のバス停で、まどろむようにそんなことを考えている。
「夢を見るということは、 に似ているわ」
空からピアノの音色が聞こえた。そんな気がした。
ベンチの端に座っている女性が、前を向いたままもう一度言った。
「夢を見るということは、 にも似ている」
春のやわらかな地面から、氷が沸いてくるような感覚があった。
それがミシミシと心臓を締めつけはじめる。
急に錆付いたように動かなくなった首を、それでもわずかに巡らせて横を見る。
顔を覆うかのような長い黒髪の女性。
空色のワンピースからすらりと伸びた足が、かなりの長身を思わせる。
もう一度言った。
「夢を見るということは、」
また一部分が聞こえない。
いや、聞こえているのに、頭の中で認識されないような、不思議な感覚。
彼女は目を閉じている。
「あなたは誰ですか」
わかっていた。
大脳のなかの古い動物的な部分が反応している。彼女が誰なのか知っていると。
「あの子が持っているものが欲しかった。手に入れても手に入れても、蜃気楼のように消えた。これも、あの子と同じ長さにしたつもりだったのだけれど」
彼女は左手で髪に触れた。細く、しなやかな指だった。
「たったひとつしかないものを永遠に手に入れるには、方法はたったひとつしかない。
いちどはそれに届いたと思ったのに」
この雨上がりの清浄な空気に、あまりに似つかわしい涼やかな声だった。
「あの手ざわりがまぼろしだったなんて」
すっと手を下ろした。
目を閉じたまま前を向いている。
その横顔から目を逸らせない。
わかりはじめた。
同じ長さだったのだろう。彼女にとって。
あの日、あの人は自分の『半身』を失った。
その謎が今解けた。
「目が……」
見えないんですね。
そう言おうとして、言葉が宙に消えた。
喋っているのに、頭の中で認識されないような感覚。
肯定するように、白い手がベンチの上に寝かせている杖を引き寄せる。
「あの子のたったひとつしかないものは手に入らなかったけれど、かわりにすばらしい世界をもらったわ」
音楽のように言葉が耳をくすぐる。
まるで麻薬だ。
その声をもっと聞きたい。壊れやすい宝石のように会話は続く。
「夜がその入り口になり、わたしは恋を知った少女のように新しい世界を俟っている。眠りが卵になり、わたしはそれを抱いてあたためる。そして夢を見るということは 」
言葉が消える。
けれどわかる。
彼女はあの人の悪夢を手に入れたのだ。
悪夢を食べるという悪魔が呼ぶ悪夢。あの人を苦しめてきた悪夢。
あの強い人が、どんなことがあっても、もう二度と、ただの一度でも見たくないと言った、その悪夢を。
彼女はなにかを呟いている。聞こえているのに聞こえない。まるで現実感がない。
太股を抓ろうとして躊躇する。彼女がそれを待っているような気がして。
あの人の『半身』は、彼女によって消滅させられた。彼女はそれをあの人だと思っていたのだ。
あの人が『少し若くみえる私』と表現していたのを思い出す。
つまり、あの人にしか見えず、触れず、知覚できなかった『半身』は、いつか喫茶店の誰もいない椅子に座っていたその『半身』は、髪が長かったころのあの人の姿をしていたのだろう。
目が見えず、手が触れられない場所にいた彼女は、人知の及ばない何らかの方法でその『半身』を見、そして捕らえた。
あの人を手に入れたつもりで。
そして『半身』と『悪夢』は消えた。
あの人は、あの人を長年苦しめ惑わせたふたつのものから、同時に解き放たれた。
そして去っていった。
「ラ・マンチャの男はあいかわらずかしら」
美しい旋律のような声が踊る。すぐにその言葉の意味を理解する。
ナイトだと言いたいのだろう。あの人を守った人物のことを。
「あいかわらず法螺を吹いています」
少し上擦ってしまったその言葉に、彼女は満足したようにかすかに頷く。
今にして考えることであるが、彼女が彼のことをラ・マンチャの男に例えた裏には、あの人の、ドルシネア姫でありながら、またアルドンサでもあるという二面性を暗に物語っている。
このことは、のちに彼の秘密に近づいたとき、その真の意味を知ることになるのだが、それはまた別の話だ。
沈黙があった。
少し前に飛び立ったカラスの気持ちがわかる。
いまこのバス停の周囲には、二人のほか動くものの影ひとつない。
ただやわらかな大気に包まれているだけだ。
彼女のいる方向を「空間が歪んでいる」と、以前あの人が語ったことを思い出す。
目を閉じたままでいると、まるで眠っているように穏やかな横顔だった。
彼女は少なくとも、高校時代には盲目ではなかったはずだ。
いったいなぜ視力を失うに至ったか、想像することも躊躇われる。
もし視力を失っていなければ、そして奇跡のような取り違えが起こらなければ、とてもあの人や彼が敵う相手ではなかった。
推測などではなく、わかるのである。
格などという言葉は使いたくない。使いたくはないけれど、つまりそういうことなのだった。
排ガスの匂いをまといながらバスがやって来た。
その瞬間に、このバス停を覆っていた不思議な膜のような空気が、霧消したような錯覚があった。
解放されたのだろう。
少し離れてバスは止まり、ドアが開いた。
自分が乗るつもりだったバスだろうか。
なぜか思い出せない。どこに行こうとしていたのか。
しかし、これに乗らなくてはならない。そんな気がした。
ベンチから立ち上がり、笑いそうな膝を奮い立たせて歩く。
「これを」
彼女がそう言ってすっきりと伸びた首元から、ペンダントのようなものを取り出した。
タリスマンだ。
あの人が以前、五色地図のタリスマンと呼んだ物。
「どこかに捨てて。もうわたしにはいらないものだから」
彼女がはじめてこちらを向いた。
足をとめ、正面からその顔を見る。
「さあ」と言って手を伸ばし、目を閉じたまま微笑を浮かべるその顔を、生涯忘れることはないだろう。
こんなに綺麗な人を見たことがない。
このあとの人生の中でどんなに美しい人を見たとしても、あれほどの深い感動を受けることはないと思う。
吸血鬼と謗られたことなどまるでとるに足りない。
そんな言葉では彼女の側面を語ることさえできない。そう思った。
「さあ」
もう一度彼女は笑うように言う。
震える手で受け取った。
ジャラリと鎖が鳴る。かすかに錆の匂いがした。
不思議な模様が円形のプレートの一面に描かれている。けれど、それだけだ。
『この世にあってはならない形をしている』と称された物とはとても思えない。
平面に描かれたどんな地図も、必ず4色以内で塗り分けられるという。
試すまでもなくわかる。きっとこれも4色ですんなりと塗り分けられるのだろう。
少なくとも彼女の手を離れた今は。
遠慮がちにクラクションが鳴らされる。
昇降口にそっと足を掛ける。二度と会うことはないだろう彼女に背を向けて。
乾いた空気の音とともに扉が閉まる。
別の世界へ通じるドアがまたひとつ閉じたのだった。
やがて間の抜けたテープの音が次の目的地を告げる。
動き出したバスに揺られ、衝動的に振り返った。
彼女がまるで最初からいなかったかのように消えてしまっている気がして。
けれど揺れる視界の中で、一枚の絵のように切り取られた窓の中で、遠ざかりつつある雨上がりのバス停に彼女はいる。
そしてベンチから立ち上がり、白い杖をついて、ゆっくりと、ゆっくりと歩き出そうとしている。
その細く長い足が、戸惑うような頼りない足取りで水溜りを跳ね、それが淡く銀色に輝いて見えた。
彼女を見た最後だった。
(了)