結婚して五十日目の夜、ようやく私は違和感を言葉にした。
それまでも妙だった。見た目の悪い料理、奇妙な組み合わせ、噛むたびに違う味がする味噌汁。それでも「慣れていないだけだ」と自分に言い聞かせていた。結婚とは、そういうものを受け入れていくことだと思っていたからだ。
決定的だったのは、袋入りの焼きそばだった。
作り方を横で読み上げた。麺をほぐし、蒸し焼きにするだけだ。だが妻は、フライパンに水をなみなみと注ぎ、麺を沈め、ふたをして煮込んだ。水がなくなった頃には、焦げた塊が底に張り付き、その上に生の白菜、セロリ、そして赤いままの鶏肉が散らされていた。
「これ、長ネギでしょ」
妻はそう言った。指差したのはセロリだった。
私は笑った。冗談だと思った。しかし妻は真顔だった。
翌日、その塊は弁当箱に詰められていた。ふたを開けた瞬間、同僚が顔をしかめた。私は何も言えなかった。代わりに、夜、同僚の家で食事をごちそうになった。
味噌汁の湯気が立ち上り、白米の香りが鼻をくすぐった。口に入れた瞬間、涙が出た。塩気と出汁の味が、はっきりと分かった。これが普通だと、身体が思い出した。
帰宅して妻にその話をした。
妻は怒らなかった。ただ、不思議そうな顔をした。
「普通って何?」
翌朝、味噌汁が出た。油揚げと、細長い緑のものが浮いている。
「ほら、長ネギ」
私は言葉を飲み込んだ。昨日はセロリだった。今日は、どう見ても長ネギだった。香りも違う。だが、口に含むと、どこか青臭い。
会社で同僚に話すと、「食材の名前が分かっていないのでは」と言われた。
試しにスーパーへ連れて行った。
牛肉も豚肉も鶏肉も、妻には区別がなかった。「肉」と書かれた札を見て選ぶだけだった。魚も同じだ。切り身なら「赤い」「白い」で分かると言うが、丸ごと並んでいると黙り込む。
野菜売り場で、妻はラディッシュを手に取り、「さつまいも」と言った。
私は否定した。妻は首をかしげた。
「書いてあるでしょ」
値札を見ると、「さつまいも」と書かれていた。
店員に尋ねると、怪訝な顔で「さつまいもです」と答えた。棚には、丸く赤い球体が山積みになっていた。
私は何も言えなくなった。
その夜の味噌汁は、やはり青臭かった。
数日後、同僚夫婦が家に来た。妻に料理を教えるためだ。
鍋を火にかけ、鶏肉を入れる。同僚の妻が「それは豚肉よ」と言った。
私は見た。確かに豚肉だった。だが、パックには「鶏もも」と印字されている。
同僚の妻は黙った。
食卓に並んだ料理を、誰も箸をつけなかった。沈黙の中で、湯気だけが揺れていた。
その翌朝、台所に甘い匂いが満ちていた。
鍋の中で、何かが溶けていた。砂糖だと思った。だが、袋には「塩」と書いてあった。舐めると、確かに甘い。
妻は言った。
「普通の味よ」
私は何が普通だったのか、思い出せなくなっていた。
十六日後、妻がいなくなった。
台所には、虫が群がっていた。蛆が床を這い、小バエが天井を黒く染めている。腐ったはずの鍋の中身は、まだ温かかった。
義父母に連絡すると、静かな声で言われた。
「昔から、あの子は味が分からなかった」
「でも、あなたは分かるでしょう?」
私は答えられなかった。
その夜、一人で味噌汁を作った。出汁を取り、油揚げと長ネギを刻む。湯気が立ち上る。
口に含む。
青臭い。
翌日、スーパーに行った。
値札には「長ネギ」とある。だが棚には、細長いセロリが並んでいる。周囲の客は、何も疑わずかごに入れている。
私は一つ手に取る。
指先に残る匂いが、もう分からない。
家に戻り、包丁を入れる。
白い汁が飛び散った。
これが、長ネギだと、私は思う。
(了)