三年前のことを、いまでもはっきり覚えている。
あれは、妻と三歳になる長男を連れて、温泉宿へ一泊した時のことだ。仕事の疲れを癒やすための、ごくありふれた家族旅行だった。
夕食前に大浴場で汗を流し、のぼせ気味で脱衣所を出た。先に上がった長男と二人、土産物コーナーで妻を待っていた。甘ったるい温泉饅頭の匂いと、色褪せた木彫りの人形。どこにでもある、平和な光景だった。
その背後から、低く湿った声が落ちてきた。
「家に火をつけるわよ……」
一瞬、意味が理解できず、体だけが先に反応した。肩が強張り、振り返る。
土産棚の陰に、男女が立っていた。女が言ったのだろう。濡れた黒髪が白い浴衣に貼りつき、襟元がわずかに乱れている。男は青ざめ、必死に手を上げて何かを宥めていた。痴話喧嘩に見えた。
だが、女の言葉は軽すぎた。
「もう別れる」
「勝手にすればいい。でも、家に火をつけるわよ」
淡々と、同じ調子で繰り返す。男が周囲を気にして声を荒げる。
「おい、人が見てるだろう」
その瞬間、女の視線がこちらを捉えた。逃げ場のない、真正面からの視線だった。
黒目が異様に大きく、光を吸い込むような目。整った顔立ちなのに、人の表情が貼りついていない。心臓が冷たく縮み、反射的に視線を逸らした。
その場を離れながら、自分に言い聞かせた。「男も、あの目に耐えられなくなっただけだ」と。
旅行は何事もなく終わった。帰宅して数日後、日曜日の昼に、妻が言った。
「玄関の前に、知らない女の人が立ってた」
胸の奥がざわついた。外に出た時には、もう姿はなかった。
次の日曜日も、同じことを言われた。
三度目の日曜日、裏口から回り込み、遠回りして背後から声をかけた。
「何をしているんだ」
振り返った女の顔を見て、息が止まった。
あの温泉宿の女だった。
一瞬、体が固まった。その隙に、女は何も言わず、風のように走り去った。
家に戻り、妻にすべてを話した。宿で見た女だと伝えると、妻の顔から血の気が引いた。
理由は分からない。ただ、こちらを見ていた。待っていた。そんな感覚だけが残った。
次の日曜日、女はまた現れた。
私はゴルフクラブを手に庭に立ち、アイアンを素振りするふりをしながら声をかけた。
「何か用ですか」
女は答えず、玄関越しにこちらを見つめていた。その目は、宿で見た時より濁っていた。怒りとも憎しみともつかない、理解できない感情が奥で渦を巻いている。視線を外した一瞬、女は再び消えた。
宿に電話をかけ、事情を話した。食い下がると、支配人に代わった。
「二人組のお客様は覚えております。ただ……こちらから連絡を取らせていただきます」
しばらくして、再び電話が鳴った。支配人の声は硬かった。
「宿帳に記載されていた住所も電話番号も、すべて虚偽でした」
その夜から、玄関の前に立つ女はいなくなった。
だが、あの声だけが消えない。
「家に火をつけるわよ」
次に現れる時、彼女は本当に火を放つのか。
それとも、もっと別のものに火をつけるつもりなのか。
私はいまでも、日曜日が近づくたび、玄関の外に耳を澄ませている。
(了)