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家に火をつける女 r+4,258

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三年前のことを、いまでもはっきり覚えている。

あれは確か、妻と三歳になる長男を連れて、温泉宿へ一泊で出かけた時のことだった。仕事の疲れを癒やすつもりの、平凡で穏やかな旅行のはずだった。
夕食の前に、大浴場で一風呂浴びた。湯気に包まれ、少しのぼせながら上がった私は、先に浴場を出た長男とともに、土産物コーナーで妻を待っていた。甘ったるい匂いの温泉饅頭や、色褪せた木彫りの人形が並ぶ、ありふれた光景だった。
その時だ。背後から低く、しかしはっきりとした声が聞こえた。

「家に火をつけるわよ……」

耳にねっとり絡みつくような声だった。思わず肩を震わせ、振り返る。
土産棚の陰に、男女が二人立っていた。女のほうが言ったらしい。長い黒髪が濡れて肩に貼りつき、白い浴衣の襟元がわずかに乱れていた。男は青ざめた顔で彼女をなだめるように手を上げている。どうやら痴話喧嘩の真っ最中らしい。
私は野次馬根性を抑えきれず、無意識に耳を澄ませていた。

「もう別れる」
「勝手にすればいい……でも、家に火をつけるわよ」

背筋が粟立つような言葉を、女は繰り返す。男が焦った声を上げる。
「おい!人が見てるだろう!!」

咎められた私は、はっとして視線を逸らそうとした。だが、その一瞬――女が鋭い目つきで私を睨みつけていたのを、確かに見た。黒目が異様に大きく、光を吸い込むような眼差し。美しい顔立ちなのに、まるで鬼が面をかぶったかのような迫力だった。心臓が冷たく縮むのを感じ、慌ててその場を離れた。
「きっと男も、あんな目に耐えられなくなったのだろう」などと強がって、自分を落ち着かせながら。

旅行はそれ以上の事件もなく、平穏に終わった。帰宅し、数日が経ち、日曜日が訪れた。
その日の昼、妻が言った。
「玄関の前に、不審な女性が立っていた」
嫌な胸騒ぎがして外に出たが、影はもうなかった。
次の日曜日もまた、同じ報告を受けた。今度は裏口から外に回り込み、遠回りして背後から声を掛けた。
「何をしているんだ!」

振り返った女の顔を見て、息が止まった。あの宿で見た女だった。
私は一瞬硬直した。その隙に彼女は、風のように走り去った。

家に戻り、妻にすべてを話した。宿で見た女と同じだと知ると、妻の顔が青ざめた。
「どうして、うちに……?小さな子もいるのに……」
不安は膨らむ一方だったが、とりあえず様子を見るしかなかった。

しかし、次の日曜日にも女は現れた。
私はついに耐えきれず、ゴルフクラブを手に庭に立った。アイアンを握り、素振りのふりをしながら声を掛ける。
「何か用ですか?」

自分でも驚くほど声が硬くなっていた。女は黙ったまま、玄関越しにじっとこちらを見つめていた。その目……あの宿で見た時よりも、さらに濁っていた。怒りなのか、憎しみなのか、理解できない黒い感情が渦巻いているようで、私は足が震えた。
目を逸らした瞬間、女はまた風のように走り去った。

家に飛び込むと、窓から様子を見ていた妻も蒼白な顔で立ち尽くしていた。私はすぐに宿へ電話をかけた。事情を話し、女について尋ねた。
フロントは「他のお客様の情報はお答えできません」の一点張り。だが私が食い下がり、警察を持ち出すと、支配人に代わった。
事情を改めて説明すると、支配人は少し考え込んだように言った。
「二人組のお客様のことは覚えております。しかし……こちらから連絡を取らせていただきますので」

その言葉にわずかな安堵を覚えたのも束の間、しばらくして宿から電話がかかってきた。受話器を握る手が冷たくなる。支配人の声は硬かった。
「お調べしましたが……お二人の宿帳に記載されていた住所も電話番号も、すべてデタラメでした」

耳の奥で何かが破れるような音がした。私は言葉を失った。妻も横で口を押さえている。
女はいったい誰なのか。なぜ私たちを狙うのか。あの黒い眼差しだけが、今も夜ごとまぶたの裏に浮かび続けている。
次に現れる時、彼女は本当に火を放つのか、それとも――もっと別のものを燃やそうとしているのか。

[出典:757 :2003/06/09 14:33]

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