これから語るのは、私の身に起こった実話に基づいた物語です。
一族のことを知る方が読めば、登場人物に察しがつくかもしれません。それでも、長年胸につかえていたものを吐き出したい一心で、筆を執ることにしました。
私の父は、地方の大きな農家の分家筋の生まれです。父の実家から竹林ひとつ隔てた北隣に、その本家はありました。
幼い頃、私は父に連れられて、父の実家へ、そしてその足で本家へと、よく遊びに行ったものです。本家には、私より少し年上の従兄弟が二人いました。兄の方は生まれつき骨の一部が欠損するという障害を抱えていましたが、二人とも快活で、幼い私によく構ってくれました。だから、私は本家が好きでした。
地元でも有数の大地主であった本家の屋敷は、子供心にもその広大さが印象的でした。私たちはいつも広々とした居間で遊んでおり、そこを離れるのは、せいぜい近くの厠(かわや)へ行く時くらいでした。
ある日、いつものように親戚の集まりで本家を訪れた際のこと。理由は定かではありませんが、私は一人で家の中を移動しなければならない状況になりました。
子供の私には複雑すぎる家屋構造に、たちまち方向感覚を失いました。昼間だというのに、いつの間にか狭く薄暗い一角へと迷い込んでしまったのです。
今も、この家のどこかにある居間では、親戚たちが談笑しているはず。大声で助けを呼べばよかったのでしょうが、内気な私にはそれができませんでした。『家の中で迷子になって騒ぐなんて、出来の悪い子だ』と思われたくなかったのです。
ふと視線を上げると、薄暗い廊下の先に、何か人影のようなものが佇んでいることに気づきました。
全身を包んでいた漠然とした不安が、一点に集中します。
誰かが、そこに座っている…?
『こんな場所に、誰が?』
その影は、全体に黒か、あるいは濃い茶色に見えました。廊下に面した部屋の入口に背を向け、あたかも椅子に腰掛けているかのようです。私はその影を、やや右側から見ている位置にいました。
もともと臆病な性質(たち)です。私はその場で凍りつき、しばらく身動き一つできませんでした。
しかし、その影は微動だにしません。まるで、命のない無機物と対峙しているかのような感覚。
私は、恐る恐る、一歩、また一歩と、その影へと近づいていきました。
そして、その輪郭がはっきりと見えた瞬間、私は腰が抜けるほどの衝撃を受けました。
それは、紛れもなく『鎧兜』でした。
時代劇で見るような煌びやかなものではありません。全体がくすんだ焦げ茶色の、明らかに時代を経た和の甲冑です。
臆病な子供だった私にとって、それは失禁しかねないほどの恐怖でした。
そこからの記憶は、曖昧です。
どうやって居間に戻ったのか、自分でもよく覚えていません。しかし、何とか家族の元へたどり着くことはできました。
……この出来事は、私がまだ小学生低学年の頃の記憶です。しかし、私にとって、これは長い物語の序章に過ぎませんでした。
ことの真相を知ることになるのは、それから十年近くの歳月が流れた後のことでした。
あの本家の鎧を目撃してから十年近くが経過した頃、私は人生の紆余曲折を経て、親元を遠く離れ、一人で暮らしていました。その間に親戚付き合いはすっかり途絶えており、本家の従兄弟(兄)が結婚していたことすら、後になって知る始末でした。
ある日、久しぶりに実家へ帰省すると、その従兄弟に子供が生まれたと親から聞かされました。
「へえ、俺もおじさんか」と軽口を叩いたものの、両親の表情が妙に暗いことに気づきます。
事情を尋ねると、父が重い口を開きました。
「実は……生まれた子が、五体満足ではないらしいんだ」
私は特に偏見を持っているわけではないので、「大変だけど、これから支えていかないとね」というような意味合いで応じました。すると、両親はさらに言葉を濁し始めたのです。
「こちらにまで『何か』が及ばなければいいのだが……」
「お前だけでも、本家との繋がりを薄くしておいて正解だったのかもしれん……」
あれほど親戚付き合いを重んじていた両親が、内心ではそんなことを考えていたのか、と軽い衝撃を受けました。
その時、私の脳裏に、あの鎧の記憶が鮮明に蘇りました。
そうだ、あの時のことを、私は今まで両親に話していませんでした。
そこで私は、子供の頃に本家で迷子になり、奇妙な鎧を見た体験を、初めて打ち明けました。
すると、両親の顔色がみるみるうちに変わっていきました。
「お、お前は大丈夫なのか!? 何か変わったことはなかったか!?」
突然そう問われても、鎧を見たのは遠い昔のことです。
母は重いため息をひとつ漏らすと、観念したかのように、本家にまつわる話を語り始めました。それは、私がこれまで知る由もなかった……両親がひた隠しにしてきた、旧家の暗部でした。
本家は、蔵から博物館級の古美術品が出てくることもあるような、由緒正しい旧家です。代々農業を営み、かつては周辺一帯の広大な土地を所有する大地主でした。
そして、その土地に、大勢の小作人を住まわせ、使役していたといいます。
本家の人間は、小作人たちに絶対的な服従を強いるため、暴力を用いることも厭わなかったそうです。
その最も陰惨な手段が『拷問』でした。
意に従わない小作人たちを罰するため、あの広大な屋敷の中には、専用の部屋、いわゆる『拷問部屋』が存在したのです。
そこで拷問を受け、命を落とした者も少なくなかったと聞きました。
この悪習は、遠い昔から続けられていたようです。しかし、先の戦争(第二次世界大戦)の終結と共に、GHQによる農地改革などの影響もあり、拷問の慣習は廃止され、部屋も使われなくなりました。
以来、そこは固く封印され、『開かずの間』として扱われているそうです。
「そして、人が近づかぬよう、その扉の前に鎧を据えてあるのだよ」
え……? あの鎧は、そのために……?
しかし、無念の死を遂げた小作人たちの怨念は、拷問の中止くらいでは消え去らなかった。本家の人間を、決して許しはしなかった。
本家の者たちが気づかぬうちに、その怨嗟は『祟り』となって、本家に纏わりついているようなのです……。
母が続けて語ったのは、耳を疑うような本家の系譜でした。
その時生まれた従兄弟の子(甥)も、男の子で、本家の跡取りとなる子でした。その子が、五体満足ではなかった。詳しい病状は伏せますが、内臓に深刻な問題を抱えているとのことでした。
その父親である従兄弟(兄)も、本家の嫡男。彼もまた、先天的に骨の一部が欠損しています。外科手術で人工骨を補い、不自由ながらも懸命に生きています。
彼の父親、つまり先代の本家当主は、実子に恵まれなかったため、分家から養子として迎え入れられました(私の父の兄にあたります)。
そう、もっと早く、この不自然さに気づくべきだったのかもしれません。なぜ本家の跡取りが、私の父の兄なのか。なぜ本家と分家の間に、養子縁組が必要だったのか……。
更にその前の代、またその前の代にも、不可解な出来事が続いていたそうです。何度妊娠しても死産だった代。生まれても精神的な問題を抱え、存在を抹消された子もいた代。
その度に、遠縁から婿養子を迎えたり、分家から養子を取ったりして、家名を繋いできたのです。
そう、代々の跡継ぎ、特に嫡男が、健やかに生まれ育たないのです。
「……本気で言ってるのか……?」
私は絶句し……思わず、自宅の仏壇に目をやりました。
私自身も戸籍上は長男(一人っ子)ですが、実は生まれる前に、死産した兄がいたことを思い出しました……。
「本家がどこまで自覚しているかは分からない。だが、分家の人間は皆、薄々気づいている。それでも、関わり合いになるのが怖くて、誰も何も言わないんだ。だから、お前が家を出て一人で暮らし始めた時、幸いだと思って、あえて親戚付き合いから遠ざけたんだよ」
……そうだったのか。そんな背景があったとは。
あれから十年以上の歳月が流れ、私は他の親戚とも、ほとんど没交渉のままです。
両親から伝え聞く限り、本家の状況は変わらないようです。
未だに気づいていないのか、それとも気づいていながらも、打つ手がないのか。
もしかしたら、この一連の出来事は、単なる偶然や、親戚たちの思い込みに過ぎないのかもしれません。
この話が杞憂かどうかは、時間が経てば明らかになるでしょう。今はまだ幼い本家の跡取りが、将来、健やかな子を授かることができれば、この陰鬱な連鎖は断ち切られるのでしょう。
しかし、もし次の代にも、また何かが起これば……
一族は、いよいよ『祟り』の存在を確信し、互いへの不信感を深め、さらに離散していくのかもしれません。
私の実家は、工場勤めの父を持つ、ごく平凡な家庭でした。子供の頃は、自分がこのような物語の当事者になるとは、想像もしていませんでした。
ちなみに、私自身も数年前に家庭を築きましたが、一人娘を幼くして病で亡くしました。これが本家の事情と関係があるのかどうか、確証はありません。しかし、疑念を抱かずにはいられないのです。
書くことで、この鬱屈した感情を少しでも昇華させたいと思いました。
……これで、少しだけ胸のつかえが下りた気がします。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
(了)