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短編 r+ ヒトコワ・ほんとに怖いのは人間

火の匂いを知る女 rcw+7,502-0121

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蒸し暑さの残る午後だった。

投稿者は、当時、車の訪問営業をしていたという。
一日に五十件から多い日は七十件。玄関先で断られることにも、露骨な嫌悪の視線にも慣れていた。人の家をノックするという行為が、次第に「入ってはいけない場所へ踏み込む癖」に変わっていく仕事だった。

あの日も天気はよく、雲ひとつない空だった。アスファルトの照り返しが強く、目の奥がじりじりと焼ける感覚があった。住宅街は静まり返り、人の気配が薄い。昼間のはずなのに、どこか時間が止まっているように感じられたという。

彼は一棟の古いアパートの前で足を止めた。外階段のコンクリートは熱を持ち、手すりに触れるとじんとした。少しでも話を聞いてくれる相手がいないかと、二階へ上がる。

インターホンを押す。
しばらくして、か細い声が返ってきた。

「どうぞ〜」

たいていは、ドアが開くか、開かずに断られる。だがその部屋では、声だけが返り、扉は動かなかった。もう一度、名乗って呼びかける。三度目でも同じだった。

本来なら、ここで引き下がる。勝手にドアを開けるのは厳禁だ。それでもそのとき、彼の中で妙な確信が芽生えたという。
――入っていい。
そう思わされた。理由はない。恐怖もなかった。

「失礼します」

声をかけ、そっとドアに手をかける。鍵はかかっていなかった。

扉を開けた瞬間、空気が変わった。

異様なほど冷えていた。冷房が全開で効いている。外の暑さが嘘のように、汗が一気に引いた。肌が粟立つ。

薄暗いリビングの奥から、何かが動いた。

床を這うようにして、老婆が現れた。
右腕を引き、左腕を伸ばし、肩を軸にして進んでくる。足は使われていない。人間の移動というより、水の中を滑るような動きだった。

「……すみません……いらっしゃい……」

声は弱々しく、しかしはっきりとこちらに向けられていた。

違和感はあった。それでも彼は、その場の空気に押されるように室内へ足を踏み入れた。玄関まで近づいた老婆が、ゆっくりと顔を上げる。

七十代後半に見えた。白髪。異様に白い肌。血の気が感じられない。片目はうまく開かず、もう一方の目も焦点が合っていなかった。

「こちらのご主人様は……?」

「いーや……息子が……ごとぇ……てる」

言葉は不明瞭だったが、息子が名義人で、昼間は仕事で不在らしいことは伝わった。

会話は途切れ途切れに続いた。営業の話はほとんど頭に入らなかった。どうしても、床を這うように動く理由が気になった。無神経だとわかっていながら、口にしてしまった。

「足は……どうされたんですか」

老婆は一瞬、黙った。時間が止まったような間のあと、ぽつりと話し始めた。

「……前のぃえが……じに……なって……にかいが……おちてきた」

前の家で火事があり、二階が崩れてきて足を痛めた。そういう話だった。

胸の奥が詰まる。火事に遭った高齢者。逃げられず、焼け跡から助け出されたのだろう。想像が勝手に膨らむ。

老婆はさらに続けた。

「ここに……きたのも……そのせいでねえ……
なんもかんも……もえて……
あしも……なくして……」

冷房の風音が低く唸り、老婆のかすれた声と混ざり合う。室内には時計の音も生活の気配もない。時間そのものが止まっているようだった。

ふいに、老婆が右手を持ち上げた。

何かをつまむような、小さな動き。
親指と人差し指を擦り合わせる。
マッチを擦るような仕草だった。

「……わ……が……を……つ……た」

聞き取れなかった。理解しなかった。したくなかった。

だが、唇は確かに、こう動いていた。

「わしが……火を……つけた」

背骨の芯が一気に冷えた。
暑さでも冷房でもない。体の内側から氷が這い上がってくる感覚。

――この老婆は、自分で家に火をつけたと言っている。

立ち上がろうとした瞬間、老婆が微笑んだ。

「……あのひも……
こんなに……あつうてなあ……」

焦点の合わない目が、こちらを捉えていた。額に汗が滲み、こめかみが熱を持つ。

「わたし……よう……しっとるんよ……
火の……においは……
あんたも……よう……にとる……」

それ以上、記憶はない。

気がついたときには、彼は階段を駆け下りていた。車に飛び込み、ドアを閉める。シャツは汗で肌に貼りつき、車内の熱が地獄のように感じられた。エンジンをかける手が震えていた。

後日、どうしても気になり、再びそのアパートを訪れた。

問題の部屋は、空室だった。

ドアには埃が溜まり、人が出入りした形跡はない。管理人を見つけて尋ねたが、はっきりした答えは返ってこなかった。

「ずっと誰も住んでないよ」

それだけだった。

部屋の奥から這ってきた老婆。
ガンガンに効いていた冷房。
マッチを擦るような指の動き。

あれは何だったのか。

本当に、あのとき話していたのは、誰だったのか。

投稿者は最後に、こう記していた。

心霊現象だとは思わない。
だが、あの瞬間、確かに自分は、
「人として扱ってはいけない何か」と
同じ空間にいた。

(了)

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