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短編 r+ ヒトコワ・ほんとに怖いのは人間

足の悪いお婆さん r+6871

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ネット掲示板で見つけた話。

投稿者は、以前、車の訪問営業をしていたという。毎日五十から七十件の家を回り、門前払いにも慣れていたそうだ。あの日も、よく晴れていた。ひどく蒸し暑く、アスファルトの照り返しに目が焼けるようだった。

人の気配の薄い住宅街をうろつきながら、少しでも話を聞いてくれる相手はいないかとアパートの階段を登った。飛び込み営業の常で、インターホンを押し、返事を待つと、か細い声が響いた。

「どうぞ〜」

たいていの人はドアを開けて対応する。だがその部屋では、声だけが返ってきた。三度呼びかけたが、やはりドアは開かない。

ルールでは、勝手にドアを開けるのは御法度だ。しかしそのときは、直感的に「入っていい」と思わされたという。「失礼します」と声をかけて、そっと扉を押した。

室内は異常なほど冷えていた。ガンガンに冷房が効いている。ぬるい汗が一気に引いた。リビングの奥から、床を這うようにして老婆が現れた。

右腕を引き、左腕を伸ばし、肩を軸にして進んでくる。まるで人魚のような動きだったという。

「……すみません。いらっしゃい……」

動きと声に違和感がありながらも、その場の空気に引っ張られるように部屋に上がった。老婆は玄関まで来ると、顔をゆっくり上げた。年齢は七十代後半か。髪は白く、肌は異様なほど白かった。血の気がない。片目はうまく開いておらず、もう一方の目も焦点が定まっていない。

「この家のご主人様ですか?」

「いーや、息子は今、……ごとぇ、てる」

言葉は不明瞭だったが、息子がこの家の名義人で、昼間は仕事で不在だということはわかった。

老婆の言葉を拾いながら、会話を続けた。足を引きずっていた理由がどうしても気になって、無神経だと思いつつも訊ねた。

「足は、どうされたんですか?」

老婆は一瞬間を置き、そしてぽつりと語り始めた。

「……前のぃえが……じに……なって……にかいが……おちてきた」

前の家で火事があり、その際に二階が崩れてきて、足を痛めたという。

彼は胸が詰まるような思いだった。火事に巻き込まれた高齢者。逃げることもできずに焼け跡から助け出されたのだろう。

老婆はその後も、ぽつぽつと話を続けた。

「ここに引っ越してきたのも……その火事が原因でねえ……なんもかんも燃えて……足も……なくしてしもうたんよ……」

冷房の風音と老婆のかすれた声だけが、室内を支配していた。まるで時間が止まっているかのようだった。

老婆は、唐突に右手を持ち上げ、何かをつまむような仕草をした。小さな動き。だが、奇妙なリアリティがあった。

親指と人差し指をすり合わせるような――まるで、マッチを擦るような動作。

「……わ……が……を……つ……た」

聞き取れなかった。耳を疑ったというより、理解を拒んだ。だが、確かにその唇は、こう言っていた。

「わ し が 火 を つ け た」

頭のてっぺんから爪先まで、全身に針を打たれたような感覚だったという。脳が遅れて現実を把握した。

――この老婆は、自分で家に火をつけたと言っている。

暑さのせいでも、冷房のせいでもない。背筋の芯から氷が這い上がってくる。思わず立ち上がろうとすると、老婆が微笑んだ。

「……あのひも……こんなに……あつうてなあ……」

視線が、焦点の合わない片目が、彼の顔をじっと見つめていた。額に汗が浮かび、こめかみが熱を帯びる。

「わたし……よう知っとるんよ……火のにおいは……あんたも、よう似とるけえ……」

それ以上は覚えていないという。頭が真っ白になり、玄関を飛び出した。階段を駆け下り、車に逃げ込んだ。

汗が冷えてシャツが肌に貼りついていた。車内の温度が地獄のように感じた。エンジンをかける手が震えていたという。

その後、どうしても気になって、そのアパートに再び行ってみた。

だが、その部屋は空室だった。管理人に訊ねると、「そこはもう半年以上、誰も住んどらん」とのことだった。

「火事の人? ああ、前に住んでたおばあさんなら、だいぶ前に施設に入ったよ。足が悪うてねえ。でも……どうしてあの部屋を?」

投稿者は、それ以上、何も訊けなかったという。

部屋の奥から這ってきた老婆。ガンガンに効いていた冷房の風。マッチを擦るような手の動き。

あれは、なんだったのか。

本当に、あの時話していたのは、誰だったのか。

投稿者は最後に、こう書いていた。

「心霊現象じゃない。けど、確かに、あの時、僕は“人の顔をした何か”と話していた気がするんです」

(了)

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