ネット掲示板で見つけた話。
投稿者は、以前、車の訪問営業をしていたという。毎日五十から七十件の家を回り、門前払いにも慣れていたそうだ。あの日も、よく晴れていた。ひどく蒸し暑く、アスファルトの照り返しに目が焼けるようだった。
人の気配の薄い住宅街をうろつきながら、少しでも話を聞いてくれる相手はいないかとアパートの階段を登った。飛び込み営業の常で、インターホンを押し、返事を待つと、か細い声が響いた。
「どうぞ〜」
たいていの人はドアを開けて対応する。だがその部屋では、声だけが返ってきた。三度呼びかけたが、やはりドアは開かない。
ルールでは、勝手にドアを開けるのは御法度だ。しかしそのときは、直感的に「入っていい」と思わされたという。「失礼します」と声をかけて、そっと扉を押した。
室内は異常なほど冷えていた。ガンガンに冷房が効いている。ぬるい汗が一気に引いた。リビングの奥から、床を這うようにして老婆が現れた。
右腕を引き、左腕を伸ばし、肩を軸にして進んでくる。まるで人魚のような動きだったという。
「……すみません。いらっしゃい……」
動きと声に違和感がありながらも、その場の空気に引っ張られるように部屋に上がった。老婆は玄関まで来ると、顔をゆっくり上げた。年齢は七十代後半か。髪は白く、肌は異様なほど白かった。血の気がない。片目はうまく開いておらず、もう一方の目も焦点が定まっていない。
「この家のご主人様ですか?」
「いーや、息子は今、……ごとぇ、てる」
言葉は不明瞭だったが、息子がこの家の名義人で、昼間は仕事で不在だということはわかった。
老婆の言葉を拾いながら、会話を続けた。足を引きずっていた理由がどうしても気になって、無神経だと思いつつも訊ねた。
「足は、どうされたんですか?」
老婆は一瞬間を置き、そしてぽつりと語り始めた。
「……前のぃえが……じに……なって……にかいが……おちてきた」
前の家で火事があり、その際に二階が崩れてきて、足を痛めたという。
彼は胸が詰まるような思いだった。火事に巻き込まれた高齢者。逃げることもできずに焼け跡から助け出されたのだろう。
老婆はその後も、ぽつぽつと話を続けた。
「ここに引っ越してきたのも……その火事が原因でねえ……なんもかんも燃えて……足も……なくしてしもうたんよ……」
冷房の風音と老婆のかすれた声だけが、室内を支配していた。まるで時間が止まっているかのようだった。
老婆は、唐突に右手を持ち上げ、何かをつまむような仕草をした。小さな動き。だが、奇妙なリアリティがあった。
親指と人差し指をすり合わせるような――まるで、マッチを擦るような動作。
「……わ……が……を……つ……た」
聞き取れなかった。耳を疑ったというより、理解を拒んだ。だが、確かにその唇は、こう言っていた。
「わ し が 火 を つ け た」
頭のてっぺんから爪先まで、全身に針を打たれたような感覚だったという。脳が遅れて現実を把握した。
――この老婆は、自分で家に火をつけたと言っている。
暑さのせいでも、冷房のせいでもない。背筋の芯から氷が這い上がってくる。思わず立ち上がろうとすると、老婆が微笑んだ。
「……あのひも……こんなに……あつうてなあ……」
視線が、焦点の合わない片目が、彼の顔をじっと見つめていた。額に汗が浮かび、こめかみが熱を帯びる。
「わたし……よう知っとるんよ……火のにおいは……あんたも、よう似とるけえ……」
それ以上は覚えていないという。頭が真っ白になり、玄関を飛び出した。階段を駆け下り、車に逃げ込んだ。
汗が冷えてシャツが肌に貼りついていた。車内の温度が地獄のように感じた。エンジンをかける手が震えていたという。
その後、どうしても気になって、そのアパートに再び行ってみた。
だが、その部屋は空室だった。管理人に訊ねると、「そこはもう半年以上、誰も住んどらん」とのことだった。
「火事の人? ああ、前に住んでたおばあさんなら、だいぶ前に施設に入ったよ。足が悪うてねえ。でも……どうしてあの部屋を?」
投稿者は、それ以上、何も訊けなかったという。
部屋の奥から這ってきた老婆。ガンガンに効いていた冷房の風。マッチを擦るような手の動き。
あれは、なんだったのか。
本当に、あの時話していたのは、誰だったのか。
投稿者は最後に、こう書いていた。
「心霊現象じゃない。けど、確かに、あの時、僕は“人の顔をした何か”と話していた気がするんです」
(了)