寺田は、都市部に点在する大規模データセンターを巡回する保守点検員だった。
一年の大半を地下フロアで過ごす。太陽光の届かない通路、空調の唸り、規則正しく並ぶラック。そのどれもが日常であり、異常はログの数値としてしか現れない。高精度の作業を求められる代わりに報酬は悪くないが、時間は常に欠けていた。三十代後半になっても、私生活と呼べるものはなかった。
昨年の盛夏、都市全体が異常な熱に包まれた夜、老朽化したサブセンターで緊急点検が発生した。幹線道路は送電障害の影響で麻痺し、通常ルートは機能していなかった。遅延は許されない。寺田はナビが避ける旧市街地下の管理通路を選んだ。現役では使われていないが、地図上では最短だった。
通路は狭く、湿気が溜まり、壁面のコンクリートは黒ずんでいた。進入してしばらくしたところで、前方の旧式運搬車両が停止した。電源が落ちたらしく、通路を完全に塞いでいる。引き返そうとした瞬間、背後で防火シャッターが無音で降りた。警告音もなかった。逃げ道は消えた。
通信は通じない。壁面には電磁シールドが施されている。
待つしかないと判断し、寺田はエンジンを切った。非常用空調はかすかに作動している。燃料も残っている。シートを倒し、目を閉じた。
時間の感覚は失われていった。
窓をなぞるような感触で、意識が浮上した。
指先ではない。硬いものが擦れる音でもない。ただ、そこに何かが触れているとわかる圧だった。
外を見ると、数人の人影が車を囲んでいた。作業服を着ている。顔は照明に照らされているはずなのに、輪郭が定まらない。誰も動かない。ただ、全員が同じ姿勢で、窓に向かって何かを差し出している。
灰色のワックスペーパーに包まれた塊だった。
形は歪で、包みの内側から黒い染みが広がっている。液体ではない。滲んでいるだけだ。
声は聞こえなかった。
それでも「受け取れ」という圧だけが、頭の内側に直接触れてきた。
寺田は窓を開けなかった。
視線を逸らし、身体を引いた。
その瞬間、影たちが一斉に近づいた。
顔がガラスに密着する。
鼻がない。口もない。
目の位置に、奥行きのわからない穴が二つ開いているだけだった。
それだけではない。
彼らの身体には厚みがなかった。照明の錯覚ではない。横から見た瞬間、存在が平面であることがわかった。切り抜かれた図形が、空間に立っている。
寺田は理解した。
あれを受け取ることが、条件なのではない。
受け取るかどうかを問われているのでもない。
ただ、そこに差し出されていること自体が、境界だった。
目を閉じ、身を縮めた。
車体が静かに揺れ、何かが窓を擦り続けた。
再び目を開けたとき、通路は作業灯に満たされていた。
救助隊がシャッターを切断し、彼を発見した。寺田は衰弱していたが、自力で歩けた。医師は軽度の脱水と診断した。
後日、報告書の付記で知らされた。
前方の運搬車両の運転手は、運転席で死亡していたという。
車内には未開封の飲料水が積まれていた。だが、それが使われた形跡はなかった。
寺田は地下作業を辞めた。
それでも、湿度の高い場所に立つと、古い機械油と腐った紙の匂いが混じることがある。
通勤鞄の底には、灰色のワックスペーパーに包まれた塊が沈んでいる。
捨てたはずでも、翌朝にはそこにある。
彼は確かめない。
重さがあるのかどうかも、もう判断できない。
ただ、それを開けると、どちら側に立っているのかが決まってしまう気がしている。
(了)