最上階のアーカイブ室には、窓がなかった。
正確に言えば、あるはずの壁面に、外光の痕跡が一切残っていなかった。
私が都心の設計事務所でインターンをしていた頃、仲間二人と無断で侵入したその部屋は、建物の最上階にあるにもかかわらず、時間帯の感覚を奪う空間だった。夜のはずなのに暗くない。昼でもない。照明が点いているかどうかも判然としない。ただ、コンクリート剥き出しの床と、天井から垂れ下がる配線の影が、一定の角度で止まっていた。
アルミケースが無数に積まれていた。埃はあるが、踏み荒らされた形跡はない。誰もいないのに、誰かが管理している気配だけが残っている。触れてはいけない場所だという感覚だけが、説明抜きで共有された。
私は一つのケースを開けた。基板とも装置とも言い切れない、円形の薄いプレートだった。中央から外周へ向かって、同心円状に細かな刻みが走っている。見ていると、どこが始点でどこが終点なのか分からなくなる。目を離した瞬間に、わずかに位置がずれたような錯覚があった。
二、三個なら気づかれないだろう。
その判断がどこから来たのか、今でも思い出せない。
数日後、呼び出しを受けた。警察ではなかった。ビルの管理責任者だという女性が、会議室で待っていた。血色が悪く、肌の色が周囲の壁と同化して見えた。声は低くも高くもない。感情の起伏が読み取れない話し方だった。
謝罪と賠償の話が進みかけた時、彼女は私を見て言った。
「弁償は不要です。ただ、確認させてください」
彼女はタブレットを起動し、画面に指を走らせた。円環が重なり合う図形が描かれていく。線は閉じているはずなのに、どこかで微妙に噛み合っていない。見ているだけで、呼吸の間隔がずれていくのが分かった。
「瞬き、今ので三回目ですね」
彼女は私の方を見ずに言った。心拍数を言い当てられた時、なぜか恐怖より先に納得が来た。見られているという感覚ではなく、すでに数えられていたという感覚だった。
彼女は私だけを残し、他の二人を帰した。持ち出したパーツも、そのまま持ち帰っていいと言った。
翌日から、業務終了後に彼女のもとへ通うことになった。
教えられた内容を、私は今も言葉にできない。数式でも、プログラムでもない。円を描き、その内側に別の円を重ねる。ただそれだけなのに、描いている途中で、自分がどこに立っているのか分からなくなる。立っていると思っていた位置が、描き終えた瞬間に少しだけ後退している。
「理解しようとしないでください」
彼女はそう言った。
「理解は遅れます。組み上げるだけでいい」
彼女のいる部屋には、時計がなかった。時間を測るものが存在しない。二時間のはずの滞在が、体感では数分だったり、逆に何日も経ったように感じられることがあった。帰宅すると、スマートフォンの歩数計が異常な数値を示していることがあった。行っていない場所のログが、なぜか残っている。
ある日、彼女は言った。
「あなたは、すでに一度、ここに入っています」
初日の侵入のことだと思ったが、違った。
「それ以前に」
思い出せなかった。だが、否定もできなかった。
彼女はこのビルを、鍵や監視カメラで管理しているわけではないと言った。誰が入れるかは、事前に決まっているのだと。決定は常に過去にあり、現在はただ実行されるだけだと。
「入れない人は、入ろうとしたことにすら気づきません」
彼女の声は淡々としていた。
終わりの日は、前触れなく来た。彼女の部屋に入ると、円環が一つも描かれていなかった。タブレットもない。彼女自身も、いつもより薄く見えた。
「ここまでです」
理由は説明されなかった。
それ以来、私は別の仕事をしている。生活は普通だ。ただ、設計図を見ると、線が勝手に閉じる。円を描いていないのに、戻ってきてしまう。建物に入る時、入口を選んだ覚えがないのに、いつも同じ位置に立っている。
最近、あのビルの前を通った。最上階を見上げると、壁面の一部だけが、周囲と微妙にずれて見えた。窓はないはずなのに、そこだけ奥行きが狂っている。
気づいた瞬間、私は目を逸らした。
もう一度、選ばれる気がしたからだ。
(了)