俺が小学校一年から六年までを過ごしたのは、オランダのユトレヒトという街だった。
親の仕事の都合で移り住んだだけで、特別な理由があったわけじゃない。
在蘭日本人の子どもは、たいてい日本人学校に通う。けれど、俺はあの独特の閉じた空気がどうにも苦手で、親に無理を言って地元の小学校に通わせてもらっていた。言葉はすぐに覚えたし、向こうの子どもたちは拍子抜けするほどあっさり仲間に入れてくれた。
家はユトレヒト郊外の住宅地で、すぐ近所に同じクラスのロゥベルツとイェシカが住んでいた。ロゥベルツは単純で声がでかくて、イェシカは勝ち気で、でも怖がりだった。放課後も休日も、三人で行動するのが当たり前になっていた。
ある日の午後、俺たちはいつもの公園でハイディンズルッカ、要するにかくれんぼをして遊んでいた。
その日は俺が鬼だった。
ロゥベルツは開始三十秒で見つかった。息を潜めるという発想がないやつだった。
問題はイェシカだった。
どこを探しても見つからない。滑り台の裏も、トイレの影も、茂みの中も空っぽだった。
もういい加減にしろよ、とロゥベルツと二人で文句を言い始めた頃、公園の奥にある森の方から、甲高い泣き声が聞こえた。
次の瞬間、イェシカが森の中から飛び出してきた。
顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃで、何度も転んだのか、服も汚れていた。
どうした、と聞く前に、彼女は叫んだ。
森の中に怖いオバケがいっぱいいた。
鍋で人の手みたいなものを煮てた。
ロゥベルツと俺は、反射的に笑った。
そんなわけないだろ、と。
次の瞬間、イェシカは本気で怒った。
嘘じゃない、ほんとだ、と叫びながら、俺たちを叩いた。
その必死さに、からかう気は一気に失せた。
じゃあ、見に行こう。
誰から言い出したのか覚えていない。
イェシカも、三人なら怖くないと言った。
森の中は、昼間なのにひんやりしていた。
木の間を縫うように、できるだけ音を立てないよう進んでいくと、やがて少し開けた野原の端に出た。
イェシカが急にしゃがみ込み、指を口に当てた。
示された先を見る。
いた。
焚き火を囲んで、四人か五人の大きな男たちが立っていた。
全員、黒くてぼろぼろの服を着て、深くフードをかぶっている。
顔は異様に白く、目の周りにくまどりのような模様が描かれていた。
男たちは、意味の分からない歌を大声で繰り返していた。
アアアアアアア、と、声を揃えて。
火にかかった鍋をかき混ぜる音が、はっきり聞こえた。
横に置かれた木のテーブルの上には、何かが並んでいた。
それが何かを理解するまで、少し時間がかかった。
人の形をしている。
腕や脚が、ばらばらに置かれている。
鍋の中から、手首の先が突き出しているのが見えた。
イェシカが、ほら、という顔で俺たちを見た。
その瞬間、ロゥベルツが耐えきれず叫んだ。
男たちが、一斉にこちらを振り向いた。
一人が斧のようなものを持っているのが見えた。
走れ。
そう叫ぶ暇もなく、俺とイェシカはロゥベルツを掴んで走り出した。
背後で、さっきの歌声が一斉に大きくなった。
アアアアアアアアア。
幸い、追ってはこなかった。
民家の明かりが見えるところまで逃げ切って、三人でその場に座り込んだ。
しばらくして、イェシカが言った。
今日見たのは、森の悪い妖精だ。
だから、もうあの森には近づかない。
その言い方が妙に現実的で、俺たちも何も言えなかった。
誰にも話さないことにして、約束通り、二度とその森には行かなかった。
大人になってから、あれはきっとカルトか何かだったのだろうと思うようになった。
テーブルの上のものも、人形だったのかもしれない。
子どもの目にそう見えただけだ。
そうやって、ずっと片付けていた。
先週、ロゥベルツから久しぶりにメッセージが届いた。
ユトレヒトのあの公園の森で、人骨が見つかったらしい。
ばらばらで、開けた野原の端から。
画面を見た瞬間、胸の奥が冷えた。
偶然だ。
そう思おうとした。
続けて、短い一文が送られてきた。
「アアアアアアア」
理由は書かれていない。
説明もない。
あのときと同じ並びで、同じ数だった。
[出典:696 :1/4:2008/07/11(金) 17:26:36 ID:pr5d+yDA0]