夜中の作業というものは、時間の感覚を鈍らせる。
針がどこを指しているのか分からなくなり、疲労と集中が同じ重さで混ざり合う。
あの夜も、たぶんそういう状態だった。
スパコミ前日の夜、私は友人Aの部屋に泊まり込み、コピー本の製本を手伝っていた。
Aは一人暮らしで、よくあるワンルームだ。作業机の上にはコピー用紙の束、ホチキス、原稿。床には裁断済みの紙が広がり、空気はインクと紙の乾いた匂いで満ちていた。
夜中を過ぎていた。
私たちはほとんど口をきかなかった。
修羅場続きのAと、移動の疲れが抜けない私。どちらも会話をする余裕がなく、ただ手を動かしていた。
飲み物は机から少し離れた小さなテーブルに置いていた。
作業中に倒すと困るから、という理由だった。
二リットルの烏龍茶のペットボトルと、コップが一つ。
喉が渇いたら立ち上がって行き、その場で飲む。暗黙の了解のような取り決めだった。
作業を続けるうちに、喉が乾いた。
けれど立ち上がるのが億劫だった。
背中を丸めたまま、私は斜め後ろにあるテーブルの位置を意識していた。
視線を向けるほどでもない。ただ、そこにあると分かっているものを、頭の片隅でなぞるような感覚だった。
次の瞬間、視界の端に動きが入った。
黒いものだった。
壁でも床でもない、何もない空間から、突然それは現れた。
形は手だった。
人の手の形をしている、と言うより、手としか言いようがない輪郭だった。
それは躊躇なく伸び、横からペットボトルを叩いた。
ゴドッ、という鈍い音。
ペットボトルがテーブルから落ち、床に転がった。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
目だけが先に動き、体はそのまま固まっていた。
テーブルの下には、確かに烏龍茶のボトルが倒れている。
音は現実だった。
倒れた位置も現実だった。
ただ、そこに至る過程だけが、現実から外れていた。
私は何も言えずにいた。
視界に残った黒い像が、消えずに張り付いていた。
そのとき、隣から声が上がった。
「すごい!」
明るく、弾んだ声だった。
場の空気と噛み合わない、浮いた調子。
「私、今の見た? たぶん超能力」
Aは笑いながら続けた。
「喉渇いたなって思ってさ。でも歩くの面倒で。ずっとお茶見てたんだよ。そしたらさ、来た」
来た。
そう言って、倒れたペットボトルを指差した。
Aは興奮していた。
その言葉のどこにも、手の話は出てこなかった。
叩いたものも、伸びてきたものも存在しない。
ペットボトルは「飛んできた」ことになっていた。
私は返事ができなかった。
喉が鳴る音だけが、自分の耳にやけに大きく聞こえた。
「……ないよね」
少し間を置いて、Aはそう言った。
苦笑しながら、さっきの言葉を自分で引っ込める。
「超能力とか。疲れてるし」
そうして話は終わった。
私たちは何事もなかったように烏龍茶を飲み、作業を再開した。
コピー本は完成し、その夜はそれ以上、何も起きなかった。
ただ、私は自分が見たものを口にしなかった。
言葉にする場所が、見つからなかった。
黒い手は、触れたら温度がありそうなものではなかった。
質感も、重さも、分からない。
ただ、動きだけがやけに正確だった。
狙いを定め、力を加え、物を落とす。
その動作だけが、頭から離れなかった。
Aとはその後、自然に疎遠になった。
連絡先も、今は分からない。
確かめる術は、もうない。
今でも、あの夜を思い出すことがある。
あの手が、誰に向けて伸びたのかを考える。
喉が渇いていたのは、Aだったのか。
立ち上がるのが面倒だったのは、私だったのか。
それとも、欲していたのは、人ではなかったのか。
同じ瞬間に、同じ方向を見ていたはずなのに、
私たちは違うものを見た。
いや、
違うものを見たと、誰が決められるのか。
今も分からない。
ただ一つ確かなのは、
あの夜、空中から何かが伸び、烏龍茶を落としたという事実だけだ。
それ以外は、思い出すたびに形を変える。
(了)
[出典:390 :恐い1/2:2013/05/07(火) 20:38:52.08 ID:jG0hYg+O0]