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短編 r+ 奇妙な話・不思議な話・怪異譚

花壇の顔 rw+1,702-0527

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タクシー運転手をやっていた頃、暇な時間によく乗客に話しかけていた。

天気のこと、景気のこと、近所の道路工事のこと。だいたいはその程度だ。相手が乗ってくれば話すし、返事が薄ければ黙ってハンドルを握る。ただ、ときどき気まぐれに「怖い話なんか、聞いたことありませんか?」と訊くことがあった。

そういう話が好きだった。

とはいえ、本当に変な話を聞かせてくれる人はほとんどいない。たいていは笑って終わる。「いやあ、ないねえ」「霊感とかないからさ」そんな返事ばかりだった。

その日も、最初はいつもと同じつもりだった。

駅前から乗ってきたのは、五十代くらいの男だった。行き先を告げる声が落ち着いていたので、こちらも自然と話しかけた。しばらく世間話をしているうち、彼も昔タクシー運転手をしていたことがわかった。

仮にAさんとしておく。

Aさんは運転手歴が三十年を越えていたらしい。夜勤も長く、酔客も事故現場も、ひと通り見てきたと言っていた。俺はそこで、いつもの調子で訊いた。

「じゃあ、怖い体験なんかもあったんじゃないですか?」

Aさんはすぐには答えなかった。

車内にはウインカーの音だけが鳴っていた。Aさんは窓の外を見ていた。顔は笑っているわけでも、怯えているわけでもない。ただ、思い出したくないものを、思い出せる場所まで手繰っているような沈黙だった。

やがて、低い声で言った。

「たった一度だけ、不思議なことがありましたね」

勤務先の車庫まで、Aさんは毎朝歩いて通っていたそうだ。

家から十五分ほどの距離だった。住宅街を抜け、細い道を二つ曲がり、古いアパートの横を通る。毎日同じ時間、同じ道を歩く。そうしていると、どの家の犬が吠えるか、どの家の雨戸がいつ開くかまで自然と覚える。

途中に、小さな平屋があった。

道に面したところに花壇があり、いつもきれいに手入れされていた。派手な花ではない。パンジーやマリーゴールド、名前のわからない白い小花。季節ごとに植え替えられていて、土も黒く、雑草もほとんどなかった。

ただ、Aさんはその家の住人を見たことがなかったという。

人の気配がないわけではない。雨の日には軒下に傘が干してあるし、窓の内側のレースカーテンが開いていることもある。なのに、花壇をいじっている人も、玄関から出入りする人も、一度も見た記憶がなかった。

ある朝、その花壇に見慣れないものが生えていた。

最初は、背の高い草だと思った。

茎が一本だけ、まっすぐ伸びていた。五十センチほどはあったらしい。太く、青臭い感じのする茎で、先端にはつぼみのようなものがついていた。花にしては丸すぎる。実にしては色が薄い。Aさんは珍しい品種でも植えたのだろうと思って、そのまま通り過ぎた。

その日の夜、仕事を終えて同じ道を帰った。

花壇の前を通ると、そのつぼみが少し大きくなっていた。朝よりも丸みを帯びていて、表面に細かな凹凸が浮いていた。街灯の下で見ると、植物というより、濡らした紙粘土を丸めたような質感だった。

気のせいだろう。

そう思った。

翌朝、またそこを通ると、もう気のせいでは済まなかった。

それは明らかに大きくなっていた。卵よりも大きく、子どもの握り拳くらいはあったという。表面は灰色がかった肌色で、ところどころに浅い皺が寄っていた。風が吹いても揺れない。茎だけが少ししなり、その先に重たそうな実がぶら下がっている。

Aさんは足を止めた。

見ているうちに、いやな感じがした。

腐っているわけではない。虫がたかっているわけでもない。ただ、その皺の入り方に、覚えがあった。目も鼻も口もないのに、何かの顔に見える。誰の顔かはわからない。けれど、知らない顔ではなかった。

その日、Aさんは勤務中も何度かその実のことを思い出した。

信号待ちの間、ミラーを見たとき。客を降ろしてドアを閉めたとき。ふと、あの肌色の丸いものが頭に浮かぶ。別に怖いと思ったわけではない。ただ、どうにも引っかかった。

三日目の朝。

実は手のひらほどの大きさになっていた。

もう丸くはなかった。少し縦に伸び、上のほうが痩せて、下のほうが垂れていた。表面には深い皺が増えていた。くぼみのようなものが二つあり、その下に鼻筋に見える盛り上がりがあった。さらに下には、横に引かれた短い裂け目のような線があった。

顔だった。

まだ完全な顔ではない。だが、人の顔に見える。しかも、老人でも子どもでもなく、中年の男の顔に見えた。

Aさんはその前で、しばらく立ち尽くした。

それが誰の顔なのか、喉元まで出かかっていた。古い知り合い。昔どこかで見た男。親しいわけではないが、確かに知っている。そういう顔だった。

その日の夜、家に帰ると、奥さんから一通のはがきを渡された。

中学時代の同級生の訃報だった。

名前を見た瞬間、Aさんは思い出した。

その男だった。

同じクラスになったことはある。だが、仲がよかったわけではない。卒業後に会ったこともない。年賀状を交わしたこともない。互いの人生に何の関わりも残していない相手だった。

それでも、顔だけは覚えていた。

翌日が通夜だった。

Aさんは迷ったが、結局行くことにした。縁が薄いとはいえ、訃報を受け取った以上、顔くらいは出しておこうと思ったらしい。式場には懐かしい顔がいくつかあった。みな歳を取り、名前と顔がすぐには結びつかない者もいた。

焼香の列に並んでいる間、Aさんは自分でも馬鹿げていると思いながら、棺の中を早く確認したかったと言った。

それで、順番が来た。

棺の中の顔を見た。

間違いなかった。

花壇に下がっていた実は、その男の顔だった。

ただし、棺の顔とそっくりだった、というだけではないらしい。Aさんが声を低めて言ったのは、こういうことだった。

「棺の中の顔より、花壇のほうが先に死んでいたんです」

俺は意味がわからず、聞き返した。

Aさんは少し首を振った。

「うまく言えないんですけどね。棺の顔は、まだ人の顔だったんです。でも花壇のあれは、もう人に見せるための顔じゃなかった。誰かが、その人だとわかるぎりぎりのところまで、土で作り直したみたいな顔だったんです」

葬儀が終わって数日後、Aさんはまたその道を通った。

本当は別の道を使うつもりだった。だが、長年の癖で、気づくといつもの角を曲がっていたという。例の平屋が見えてきた。花壇も見えた。

足が勝手に止まった。

花壇には何もなかった。

あの茎も、実も、根の跡もない。土はきれいに均されていた。ほかの花もなくなっていた。湿った黒い土だけが、長方形に敷かれている。まるで、そこだけ小さな墓地のようだった。

Aさんは花壇の前でしばらく立っていた。

すると、家の中でカーテンが少しだけ動いた。

誰かがいる。

そう思ったが、声をかけることはできなかった。自分が何を尋ねるつもりなのか、わからなかったからだ。

その日を境に、Aさんは通勤路を変えた。

十五分で済む道を、二十五分かけて歩くようになった。奥さんには、健康のためだと言った。車庫の同僚には、朝の散歩だと言った。

それから何年かして、仕事でたまたまその近くを走ることがあった。

Aさんは客を降ろした帰り、あの平屋の前を車で通った。花壇はまだあった。ただ、植えられていたのは何の変哲もない赤い花だった。家も普通に見えた。郵便受けには名前もあった。洗濯物も干してあった。

それで、ああ、もう大丈夫なのかもしれないと思った。

だが、信号待ちでふとサイドミラーを見ると、花壇の前にひとりの男が立っていた。

顔は見えなかった。こちらに背を向け、花壇を覗き込んでいた。近所の人か、通行人か。そんなところだろうと思った。

けれど、次の瞬間、Aさんは背中が冷たくなった。

その男の姿勢に見覚えがあった。

花壇を覗き込むときの自分と、まったく同じだった。

「その人に声をかければよかったのかもしれません」

Aさんは、そこで一度言葉を切った。

「でも、何を言えばいいんですかね。そこに何か見えますか、なんて訊けないでしょう。見えていたら嫌だし、見えていなかったらもっと嫌でしょう」

車内は静かだった。

俺は返事を探したが、何も言えなかった。

Aさんは穏やかな顔をしていた。だが、話し終えたあとも、窓の外から目を離さなかった。まるで、知らない家の小さな花壇を、今でも探しているように見えた。

やがて目的地に着いた。

料金を受け取り、ドアを開けた。Aさんは降りる前に、少しだけこちらを見た。

「運転手さんも、毎日同じ道を通るでしょう」

「まあ、そうですね」

「じゃあ、気をつけてください。見慣れた場所に、見慣れないものがあるときは」

そう言って、Aさんは降りた。

俺はしばらくその場に停まっていた。バックミラーを見ると、Aさんはもう歩道の人混みに紛れていた。どこへ行ったのか、すぐにわからなくなった。

その夜、車庫に戻って車内を掃除していると、後部座席の足元に少しだけ土が落ちていた。

客が靴につけて持ち込んだのだろう。

そう思って、ほうきで払った。

ただ、その土は妙に黒く、湿っていた。指でつまむと、花壇の土のような匂いがした。

翌朝、俺はいつものように家を出た。

車庫までの道に、花壇のある家は一軒だけある。

そこには前から、季節の花が植えられていた。何度も見ている。別に変な家ではない。住人の顔も知っている。何もおかしくない。

そのはずだった。

花壇の端に、一本だけ、見慣れない茎が立っていた。

まだ低かった。十センチにも満たない。先端には、小さな丸いものがついている。

俺は足を止めなかった。

見なかったことにして、そのまま歩いた。

今でも、その道は通っていない。

ただ、あの朝の小さな丸いものが、誰の顔になる途中だったのかだけは、ときどき考える。

考えたくないのに、思い出す。

そして一番嫌なのは、Aさんの顔を、俺がもうはっきり思い出せないことだ。

[345 :本当にあった怖い名無し:2022/01/26(水) 00:06:27.48 ID:icuE+6v90.net]

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