あれが現れた夜のことを思い出すたび、私は未だに手のひらが汗ばむ。
東北の、地図にも載らないような小さな集落で暮らした、ほんの一年弱の出来事だ。
横浜から夫の故郷に引っ越したのは、第二子を出産した直後のことだった。
育児と家事に追われる日々のなかで、自然に囲まれた静かな環境に移り住むのは、理想的な選択に思えた。
新しい家は木造平屋の一戸建て。等間隔に、まるで型を抜いたように並ぶ数軒の家々。どれも同じ三LDK。裏は山、側面には小川が流れ、朝は鳥の声がカーテン越しに届く。
引っ越し初日、私は「当たりだ」と思った。子どもたちもよく眠り、隣家のAさん一家ともすぐに仲良くなれた。彼らも横浜からの移住者で、子供同士もすぐに打ち解けて遊ぶようになった。
ただ、最初から、気づいてはいたのだ。裏山に、奇妙な注連縄が巻かれた木が点在していたこと。やけに整備されていないのに、墓標のような石が斜めに倒れていたこと。そして大家の老婆が私に言った言葉。
「あまり奥には入っちゃいけないよ。迷うからね」
その山はせいぜい三〇〇メートルもない丘のようなものだ。迷うはずがない。にもかかわらず、私は言い返せなかった。あの老婆の声には、どこか、……返事をさせない力があったから。
雪が降ったのは、移住して三ヶ月ほど経ったころだった。
あの夜の記憶は、私の頭に霜のように残っている。
子どもたちをお風呂に入れ、食後の片づけを終えて、ようやくほっとした時間だった。テレビをつけ、ソファに腰を下ろしたそのとき――
「グルルルルル……ウゥウウウ……」
窓越しに、低く、湿ったような唸り声が聞こえてきた。テレビの音量はそこそこ大きく、窓も閉めていたのに、はっきりと、骨に染み込むような声だった。
夫と目を見合わせ、互いに動きを止める。
熊か、野犬か、それとも……もっと得体の知れないものか。
子どもたちを抱き寄せ、私はスマホを手に握った。
次の瞬間、声は裂けるような悲鳴に変わった。
「グルルルゥウグワゥゥウウウ!!!」
「ギャーーーーギャキィキィイ!」
どこかで、何かが襲われている……?
それにしては、走り回る足音も、物音もなかった。空間に浮かぶ声だけが、こちらを圧迫してくる。
夫が障子を開け、懐中電灯で庭を照らした。
「何もいない……」
嘘のように、視界にはただ静かな雪景色が広がっていた。
五センチは積もっていただろうか。まっさらな白の中に、何の影も動きもない。
翌朝、起きるなり玄関から裏山まで、私は足跡を探して歩いた。
けれど、雪は完璧なまま。破られた箇所など、どこにもなかった。
その日の午後、私はAさんに昨夜のことを話してみた。
「……実はね」
Aさんの顔が、少しだけ陰を帯びた。
彼女も、同じような声を以前聞いたことがあるという。しかも一度、あまりに怖くて警察に通報したこともあると。
パトカーが到着したのは深夜二三時。家の周囲をくまなく調べてくれたそうだが、やはり足跡一つなかったという。
「その日も、雪が降ってた」
と、Aさんはぽつりと言った。
後日、彼女は近所に住む大家さんに相談した。すると、玄関先の箒を持ったまま老婆はこう言ったという。
「神さんみたいなもんだ。害はない。気にしなさんな」
そのとき私は思い出した。
山の中で見かけた、石祠のようなもの。無造作に置かれた、獣の骨と何かの人形。
「祠があるって知ってた?」と私が訊くと、Aさんは苦笑いした。
「うちの子、祠のそばで泣きながら吐いたことあるの」
そして彼女は言った。
「声だけじゃないんだよね。……天窓、注意したほうがいいよ」
天窓?
我が家と同じ造りの玄関には、すりガラスの上に明かり取りの小窓がついていた。私は気にも留めていなかったが、Aさんはその窓に「影が映る」と言った。
「影、って?」
「なんて言えばいいのかな……玄関の前をうろうろしてる、背の高い人影みたいなの。街灯のせいかと思ったけど、それにしても高すぎるんだよ、位置が」
その影が出る翌日、Aさん宅の玄関前には、ムカデやら鳥やらの死骸が落ちているという。
「お供え物……なんじゃないの、あれ」
と、笑ってはいたが、目は笑っていなかった。
その日の夜、私は天窓にカーテンを取りつけた。
それ以来、影は見えなかったが……二度、玄関に蛇の死骸が落ちていた。
夫は気味が悪いと言いながらも「山の動物だろ」と済ませたが、私はどうしても納得できなかった。
ある日、長男が山の方を指差して「おばけがいる」と泣いた。
さらにその翌日、Aさん宅の娘と遊んでいた長男が、泣きながら助けを求めてきた。
「山から、おばけが来て、Aちゃんを連れてこうとした……!」
その日を境に、私は山の方角に背を向けて歩くことができなくなった。
やがて、夫の実家との関係がこじれたことをきっかけに、私たちは横浜に戻ることになった。
荷造りを終えた日、私はAさんに最後の挨拶をした。
「まだ、あれ……来るの?」
と訊いたら、彼女はふっと目を伏せて言った。
「うん、最近また天窓に映るようになったの。……でも、ちょっと変わった」
「変わった?」
「うん、あの影、うろうろするんじゃなくて、最近はずっと、立ち止まってるの。……こっち、見てる」
[出典:778 :白神さん:2021/10/29(金) 16:16:30.84 ID:Udbs0ahm0.net]