長野県に住む野田さんから聞いた話だ。
その年の初夏、梅雨が明けた直後の短い晴れ間を狙って、野田さんは旧友の森下と渓流釣りに出かけた。行き先は県北部の奥深い源流域で、登山道はなく、入山すれば人と会うことはまずない。テント泊を前提にした、いわゆる本格的な釣行だった。
まだ夜が残る時間帯に車を走らせ、山へ向かった。空は澄み、湿度も低い。虫も出ていない。渓流釣りには申し分のない条件だったという。
登山口へ向かう途中、森下がふとハンドルを握ったまま言った。
「……ライターの予備、買ってなかった」
一瞬の沈黙のあと、二人は引き返すことにした。火が使えなければ、山では何もできない。
立ち寄ったのは、山の斜面を削って建てられた小さなコンビニだった。プレハブの外壁は色褪せ、駐車場も狭い。早朝だったが店内は明るく、品出し中の若い女性が一人いるだけだった。
森下は雑誌棚へ向かい、野田さんはライターの売り場へ行った。そのとき、背後から声をかけられた。
「釣りかぇ」
振り返ると、老人が立っていた。年齢は分からない。白髪で、背は低く、顔は皺だらけだったが、目だけが異様に澄んでいたという。
「そうです」と答えると、老人は野田さんの顔をじっと見つめ、急に目を見開いた。
「塩は持っとるか」
意味が分からず、曖昧に笑ってやり過ごそうとした。すると老人は一歩近づき、低い声で言った。
「持ってけ。持たんと、戻れん」
理由は語らなかった。脅すようでも、忠告のようでもなかった。ただ、断言だった。
その場の空気に押され、野田さんは調理用の塩を一瓶、手に取っていた。会計を済ませて振り返ると、老人の姿はもうなかった。レジの女性に聞いても、そんな人は見ていないという。
自分に言い訳するように、塩は汗対策にもなるし、魚にも使えると考えながら、再び山へ向かった。
入山後の釣果は驚くほど良かった。人の気配はなく、岩魚が次々に掛かる。昼過ぎ、源流を目指しているという若い男と出会った。沢口と名乗り、大学でクライミングをやっているという。体格が良く、動きに無駄がなかった。
三人で釣り上がり、夕方には魚止めの滝に着いた。そこが当初のキャンプ予定地だったが、沢口がロープで軽々と滝を越えてみせた。
「もう少し上を見てみたい」
野田さんが言うと、森下は黙り込んだ。
「……あの爺さん、この先は戻れんって」
それでも引き返さなかった。好奇心が勝った。滝を越えた先の渓谷は、音が吸い込まれるように静かだった。風もなく、水音だけが低く続いていた。
夜、焚き火を囲み、岩魚の塩焼きと炊き込みご飯を食べた。酒も回り、三人とも気が緩んでいた。
夜釣りに出ようと、ヘッドライトを点けて川岸を歩いていたときだ。森下が急に足を止めた。
「……なあ。あそこ、しゃがんでないか」
木の下に、白いものが見えた。髪のように見えた。女か、老人のようだった。
こんな場所に、人がいるはずがない。そう思った瞬間、ヘッドライトがその姿を捉えた。
それは、音もなく立ち上がり、木を登り始めた。
その動きは、人ではなかった。
次の瞬間、何かが突進してきた。混乱の中、森下がナタを振り下ろした。獣の気配、血の匂い。何かが逃げていったあと、森下は崩れ落ちた。脇腹が裂け、血が止まらなかった。
沢口は無言でロープを取り、救助を呼びに行くと言って闇に消えた。
夜が深まるころ、渓谷の下を光が動いているのが見えた。ヘッドライトだと思った。
「沢口だ」
そう思ったが、光の動きが異様だった。足場の悪い谷を、滑るように、止まらずに進んでいく。人が走る速さではなかった。
明け方になっても、沢口は戻らなかった。
偶然、別ルートから入山していた年配の釣り人たちが衛星電話を持っており、救助が呼ばれた。森下は助かった。
下山した翌日、新聞の片隅に記事が載った。渓谷で若い男性の遺体が見つかったという。身元は東京都在住の大学生。遺体の発見場所は、滝を越える前だった。
足跡は、途中で消えていたと書かれていた。
では、あの夜、谷を走っていた光は何だったのか。
野田さんは、あの塩の瓶を今も開けていない。実家の神棚に置いたままだ。朝靄の濃い日、瓶の中に、白いものが映る気がするという。
[出典:323 本当にあった怖い名無し 2006/05/14(日) 19:26:55 ID:jKFIkyQz0]