不動産会社に入って三ヶ月目のことだ。
郊外の分譲地に建つ、築八年の戸建てを任された。離婚を機に売却したいという依頼だった。所有者は四十代半ばの男。妻子はすでに出て行き、現在は単身で暮らしているという。
電話口の印象は穏やかで、話も早かった。現地確認と査定を終えれば、あとは事務処理だ。そう考えていた。
午後三時過ぎ、家の前に立った瞬間、理由もなく首筋が冷えた。外観は整っている。芝も刈られ、郵便受けも荒れていない。だが、窓の奥が暗い。カーテンが閉じられているせいだけではない気がした。
インターホンを押すと、間を置いて扉が開いた。
最初に届いたのは臭いだった。湿った布を何日も密閉したような、酸味を帯びた腐臭。目の前の男の体から立ち上っているとすぐにわかった。脂で束になった長髪、黄ばんだTシャツ、乾いて割れた唇。皮膚そのものが湿っている。
「どうぞ」
通された玄関は散らかっていない。だが、靴箱の上に空き缶が山積みになり、床には拭き取った跡のような黒ずみが残っている。拭いたのに落ちていない。そういう質感だった。
リビングに入ると、壁に複数の穴があった。拳大のものがいくつも並び、周囲に茶色い染みが広がっている。
「ちょっと荒れててね」
男は笑った。喉の奥が擦れるような声だった。
書類の確認を急ごうとすると、男はソファに座り、ビールを開けた。
「その前にさ、俺の話、聞いてくれないか」
断る理由が見つからず、向かいに腰を下ろす。
父親の暴力、母親の無関心、若い頃の喧嘩、できちゃった結婚。話は途切れず続いた。やがて妻の話になり、声色が変わった。
「浮気してたんだ。証拠はない。でも、あいつは俺を裏切ってた」
視線が、私の肩越しの空間に固定された。誰もいない壁の隅を、じっと見ている。
「人間ってな、裏切られると壊れるんだよ」
ゆっくりとこちらを向き直る。
「最初は軽くどついただけだ。逃げようとしてたからさ。風呂場で、ちゃんと話そうと思って」
背中に汗が流れた。
「風呂場、見てないだろ。物件なんだから」
廊下を歩く。足音がやけに響く。
浴室の扉は内側から蹴られたように歪み、ガラスはひび割れていた。浴槽の中には、黒く固まったものが厚くこびりついている。水垢ではない。何度も流して乾いた、何かの層に見えた。
排水口の周囲が異様に擦られている。そこだけ白く削れている。
「掃除が面倒でさ。もう何ヶ月も使ってない。業者入れたら、いくらくらいかな」
普通の調子だった。
私はそれ以上踏み込まなかった。遺体はない。失踪届の話も出ない。暴力があったという告白も、独り言のようなものだ。通報する根拠は、曖昧だった。
後日、物件は事故扱いにはならず、リフォーム後に売却された。壁は張り替えられ、浴室も新品に交換された。
引き渡し前の最終確認で、私はもう一度その家に入った。消臭剤の匂いが充満し、白い浴槽が光っていた。どこにも黒い痕跡はない。
だが、床下点検口の蓋だけが、わずかにずれていた。
施工業者に尋ねると、「最初からですよ」と言った。
その場では閉め直さなかった。触れると、何かの確認になる気がした。
あの家は、今も誰かが住んでいる。外観は整い、庭では子供が遊んでいるかもしれない。
けれど、私の中では、あの家はまだ売却されていない。
内見に行くとき、いまでもときどき、肩の向こうを見られている気がする。誰が、ではない。あのとき男が見ていた「位置」と同じ場所を、だ。
次にあの家を査定する人間が、床下の蓋を開けるのかどうか。それは、もう私の業務範囲外だ。
[出典:353 :1/2@\(^o^)/:2016/03/29(火) 13:04:30.19 ID:BifyCO6v0.net]