甲府方面にある旅館に泊まった時の話だ。
俺と彼女が付き合って1年ちょっと経った頃、記念にと電車で旅行へ行った。目的地も特に決めず、行き当たりばったりで泊まる場所も適当に探す、そんな気ままな旅だった。
初日は山梨方面に向かい、なんとなく清里で降りてホテルに泊まった。翌日は富士山方面へ電車で移動し、途中で甲府駅に寄って城跡を見学。夕方近くに再び電車に乗り、静岡方面へ向かった。
その途中、温泉街を見つけたのでその日の宿を探そうと電車を降り、駅にあった案内板で旅館を検索し、いくつか電話をかけた。しかし近場の宿はどこも満室。仕方なく温泉街から少し離れた宿に空室を確認し、迎えを頼んだ。
だが迎えの車はなかなか来ず、30分待っても現れない。1時間ほど経ってようやく軽のワゴンが到着。その時点で少し嫌な予感がしたが、迎えに来てもらった手前、何も言わずに車に乗り込んだ。
車はきれいな旅館やホテルを尻目にどんどん山奥へ進む。周りには川しかなく、不安は募る一方だ。そして到着した旅館は想像を超えるボロボロの建物で、周りには店も何もない。辺りはすっかり暗くなっており、廃墟にしか見えなかった。
旅館に着いたものの、女将も仲居も出てこない。運転してきたおじさんがそのまま部屋へ案内してくれ、食事の時間だけ告げてどこかへ消えてしまった。客は他にもいるらしく、隣の2部屋が埋まっていた。
夕食まで時間があったので先に風呂へ行くことにしたが、風呂は男女共用で時間制。女性時間だったため、彼女が先に入ることになり、俺は部屋で炬燵に入って少しうたた寝していた。
そこでいきなり金縛りに遭った。炬燵に入れていた足先から、何かが這い上がってくるような感触がする。身動きは一切取れず、耳元では“ズズズ”という何かを引きずる音。そして、“ハァ”という息遣いとともに、小さな声で“助けて…”と呟く声が聞こえた。まぶたを開けようとしても目が押さえつけられているようで開けられない。
その時、襖が開いて彼女が戻ってきた。金縛りはその瞬間に解け、俺は汗だくで息が荒かった。彼女に心配されたが、あまり怖がらせたくなくて“変な夢を見た”と誤魔化し、風呂へ行く準備をした。
しかし男性時間と夕食時間が重なっていたため、先に食事を取ることになった。この食事が驚くほどまずい。夕食後、風呂へ向かうと誰もおらず貸切状態だった。気を取り直して湯船に足をつけると…ぬるい。全然温まらない。仕方なく出ようと更衣室に向かう途中、窓が“コツコツ”と叩かれた。
ビクッとして外を見るも真っ暗で何も見えない。金縛りのことを思い出して怖くなり、急いで更衣室のドアを開けようとした。その瞬間、“コンコン”と再び窓が叩かれ、音が次第に“ズズズ”と何かを引きずる音に変わった。怖さに耐えられず、体も拭かずに浴衣を着て部屋へ逃げ帰った。
部屋に戻り彼女に話すと、彼女は“お化け屋敷みたいだね”と笑って落ち着かせようとする。彼女が暖かい飲み物を買ってきてくれたので、それを飲んで布団を敷いて寝ることにした。
夜中、隣の部屋から突然叫び声が聞こえて目が覚めた。女性客2人が廊下で大騒ぎしている。文句を言おうと廊下に出ると、彼女たちは泣きながら震えており、一人は発狂状態だった。
何があったのか聞いても答えず、ただ部屋の方を指差して“あっ…”と呟くばかり。何か不審者でもいたのかと思い、俺は箒を持って彼女たちの部屋に向かった。
部屋に入ると異変は見当たらなかったが、襖の近くから“ズズズ”という音が聞こえた。押入れに何かがいると思い、立て付けの悪い襖を少しずつ開けると…窓ガラスに映る部屋の様子が目に入った。
そこには、俺たちの後ろに這いつくばる奇怪な“何か”が映っていた。窓の外から這いずるように出てきたそれは、薄桃色のぐちゃぐちゃな塊で、人の顔のようにも見えたが、目や口は不気味に垂れ下がっていた。
“ズズズ…”という音と共に、それは異様なスピードで這い、叫び声を上げながら窓の外へ消えていった。
俺たち含め、全員が呆然として声も出なかった。朝までロビーで暖房に当たりながら、誰も一言も話さずに過ごした。
朝、女性客たちは荷物を取ってタクシーで帰っていき、俺たちも恐怖が残る中、荷物をまとめて駅まで送ってもらった。旅館の従業員は何事もなかったかのように謝罪をしたが、もう二度とあの場所には行きたくない。
その後、彼女とあれこれ考察したが、結局何だったのかはわからない。あの“助けて”という声、金縛り、窓に映った奇妙な塊…旅館側が何かを知っているのかもしれないが、それを確かめる勇気はもうない。
今でもその旅館は営業を続けているらしいが、場所については言わないでおく。ただひとつ確かなのは、あれは確実に普通の旅館ではなかったということだ。
[出典:57 本当にあった怖い名無し 2008/01/08(火) 03:41:14 ID:BwpMeeNd0]