今でもあの昼の匂いを思い出すと、胸の奥がざわつく。
油の熱で立ちのぼる揚げ物の甘い香りと、にゅうめんの湯気が入り混じる、あの一瞬の空気だ。
子どもの頃、一日に何度か、時間が巻き戻るような感覚に襲われていた。遠足から帰ってきて玄関に手をかけた途端、また山道を登っている最中に戻ってしまったり。ゼリーが固まったと喜んだ瞬間、まだ材料を冷蔵庫から取り出していない段階に立ち返ってしまったり。子どもの妄想に現実が追いつけないのだと、自分で説明をつけていた。
けれど、あの日だけは違った。思い出すたび、背筋に冷えが走る。
平日の午前。学校は休みで、家には祖母と二人きりだった。居間の畳に横になっていると、台所から包丁の規則正しい音が響いてくる。昼は何にするか、祖母と並んで相談をしていたのだ。
「にゅうめんと野菜の素揚げにしようかね。ナスとカボチャがあるよ」
そう言って祖母は、ためらいなく紫色の皮を切り落としていった。白い断面に包丁が吸い込まれていく。自分は皮を掴んでゴミ箱に落とすだけ。それでも胸の奥は少し誇らしく、湯気の向こうに食卓が整っていく未来を確かに思い描いていた。
そのときだった。
「ドオオンドオオン」
重低音が腹に響き、家全体がぐらりと震えた。吊り戸棚の皿が小さく触れ合い、チリンと高い音を立てた。手のひらにじっとり汗がにじむ。祖母は包丁を持ったまま立ち止まり、まな板に広がったナスを凝視していた。
「ちょっと外を見てくる」
そう言って、祖母は勝手口を開け放った。冷たい風が一瞬だけ流れ込み、切ったばかりのナスの青臭さを掻き回した。
戻ってきた祖母は、落ち着いた調子で言った。
「浅間山が噴火しただけだよ。ここまでは来ないから大丈夫」
言葉の意味を理解できず、喉が乾いた。
「火山って……噴火って……大丈夫なの?」
祖母は視線をやわらかく落としてきた。皺の刻まれた瞼の奥に、曖昧な安堵が漂っていた。
「遠いからね。平気だよ。お昼の準備を続けよう」
その声を聞いた途端、体の震えがすっと収まった。大人の目を信じてしまう安心が、胸を覆った。
……気づいたときには、居間の座布団に座っていた。時計の針は朝の七時を指している。窓の外には白い朝靄。竿にかけられた洗濯物が風に揺れ、湿った布の匂いが部屋に滲み込んでいた。
扉が軋んで開き、祖父が顔を出した。
「仏さんにお茶、入れたか?」
「あ……入れたと思うけど……」答えながら仏壇に近づくと、茶碗は空のままだった。確かに自分は注いだ記憶がある。それが霧のように掻き消えていく。胸の奥に、ぽっかり穴が開くような不安が広がった。
湯を注ぎ直しながら、ぽつりと祖父に尋ねた。
「ばあちゃん、どこ行ったの?」
「今日は仕事で昼まで戻らんぞ。なんか食いたいもんあるか?」
「でも……さっき一緒ににゅうめん作ってたんだよ」
祖父は声をあげて笑った。
「寝ぼけてるんだろ。昼はじじいが作るから、楽しみにしてろ」
笑顔の端に、かすかな影が走ったように見えた。

昼近く、台所から祖父の声が響いた。
「できたぞー!」
居間に呼ばれて席につくと、湯気を立てるにゅうめんと、油のきらめきをまとったナスとカボチャが並んでいた。
「これ……ばあちゃんと作ったやつと同じだ」
思わず口にした自分に、祖父は唇の端を吊り上げた。
「じじいの腕がばあちゃんに似てるってか?」
その笑みに、なぜか胸の奥がざらついた。箸を持つ手に汗がにじみ、指先が滑りそうになる。
揚げたての野菜をかじると、油の熱で舌がひりついた。目の前の料理は確かに祖父の手によるものだろう。だが、鼻の奥に残っているのは、祖母が包丁で刻んでいたときの青臭い匂いだった。二つの記憶が同時に匂いとして立ち上がり、頭がぐらついた。
「そろそろ浅間が噴火する時間だ……」
心臓が早鐘を打つ。箸を持つ手首にまで震えが伝わった。けれど、窓の外はただ静かに風が流れているだけだった。
揺れも轟音も来なかった。
油断した呼吸の隙間に、奇妙な違和感が忍び込んできた。
——昼を食べ終え、居間で横になった瞬間、視界が切り替わった。
台所の光景。
包丁でナスを刻む祖母。
まな板に走るリズム。
目の前の現実が、さっきの場面に巻き戻っている。思わず声を出しかけたが、喉がひゅっと詰まり、吐息だけが漏れた。
祖母は私の存在に気づいているのかいないのか、黙々と手を動かしている。
耳の奥に、またあの重低音が近づいてくる気配がした。
「ドオオンドオオン」
皿が震え、祖母の指先がほんの一瞬止まる。
今度は、祖母は外を見に行かなかった。ただまな板の上で、切ったナスをゆっくり揃える仕草を繰り返していた。
恐怖に喉を閉ざされたまま、私は後ずさった。壁に背がぶつかる感覚で現実を確かめる。汗が冷たく背筋を伝って落ちた。
次に瞬きをすると、また居間にいた。時計は朝の七時。
「仏さんにお茶、入れたか?」
扉を開けた祖父の声が、先ほどと全く同じ抑揚で響いた。
茶碗は空。
同じ会話。
同じ流れ。
記憶と現実がぐるぐると重なり、胃の奥が締めつけられるようだった。
昼になれば、また祖父のにゅうめんと揚げ物が出てくるのだろう。
その時、私はまた「浅間が噴火する」と胸を締めつけられるのだろう。
けれど——もう一度巻き戻ったとき、自分がどこに戻るのか、その確信が持てなかった。
昼を食べ終えると、恐怖よりも倦怠に体が重くなり、そのまま畳に横になった。
瞼を閉じれば、すぐにでもあの光景へ戻される気がしてならなかった。
息を殺して時間を待つ。
けれど、時計の針は淡々と進んでいく。
祖父は縁側で煙草を吸い、風が灰をさらっていく。
「……戻らない」
そう胸の中でつぶやいたとき、安堵とも落胆ともつかない感情が胸に沈殿した。
その夜。
夢の中で、祖母が台所に立っていた。包丁の刃がまな板にあたる乾いた音。湯気をはらんだ空気の熱。油のはぜる匂い。どれも現実より鮮やかだった。
「浅間山が噴火しただけだよ」
振り返った祖母の口が、確かにそう告げた。
その瞬間、夢はぐらりと揺れた。
耳の奥に、あの轟音が響いた。
体ごと揺さぶられる感覚に、目が覚めた。
障子の隙間から、赤い光が差し込んでいた。
立ち上がり、庭に出ると、山の稜線の向こうに赤黒い噴煙が立ちのぼっている。空気は熱を帯び、灰の匂いが鼻を突いた。
「やっぱり来た……」
呟いた声が、夜気に吸い込まれる。
足の裏に砂のざらつき。肌に触れる灰の細かいざわめき。
背後から祖父の声がした。
「どうした。こんな夜中に」
振り返ったが、そこに立っているのは祖父ではなかった。
祖母だった。昼間と同じ、白い割烹着。
皺の奥に沈んだ目が、静かにこちらを見つめていた。
「お昼ご飯の続きをしよう」
そう告げられた瞬間、景色がすべて溶けていった。
——気がつくと、畳の上で目を覚ましていた。時計は朝の七時。窓の外には白い朝靄。
「仏さんにお茶、入れたか?」
扉を開ける音と共に、祖父の声が響いた。
同じ場面に、また戻っている。
茶碗は空。
祖父は笑う。
その笑みの奥に、祖母の目が潜んでいる気がした。
「……ばあちゃんは、どこにいるの?」
自分の口がそうつぶやいた。
祖父は答えず、ただ湯気の立つ椀を差し出した。
にゅうめんと素揚げのナス。
その匂いを吸い込んだ瞬間、体が小さく震えた。
昼も夜も、夢も現も、すべてこの食卓に繋がっている。
——その日から、私の一日は何度でも始まり直すようになった。
朝七時。
仏壇の空茶碗。
そして必ず、にゅうめんと素揚げの皿が用意される。
噴火の轟音は来ない。
けれど、私の中では確かに浅間山が鳴り続けている。
[出典:418 本当にあった怖い名無し 2013/11/17(日) 10:28:36.96 ID:GK9cHHzqO Be:]