俺は、ある古びたアパートの一室、104号室に住んでいる。
二階建てで、築年数だけが自慢のような建物だった。薄い壁、軋む階段、夜になると外灯が半分しか点かない通路。安い。理由はそれだけだ。住人同士の交流もなく、誰がどの部屋に住んでいるのかも、正確には知らない。ただ、隣の103号室の女だけは例外だった。
水梨と名乗るその女は、よく廊下で顔を合わせると声をかけてきた。世話焼きというより、距離が近い。こちらが答えなくても構わず話すタイプだ。正直、少し苦手だったが、無害だとは思っていた。
異変に気づいたのは、ある夜、仕事帰りだった。
アパートの前に、赤い回転灯が反射していた。数台のパトカーが路上に停まり、建物の外壁を赤く染めている。だが、誰も外に出ていない。騒ぎもない。ただ光だけが回っている。
嫌な感じがしたが、腹も減っていた。俺はそのままスーパーへ向かった。
店内で惣菜を選んでいると、横から声をかけられた。
「あんた、104だよね」
水梨だった。顔色が悪い。目の下が落ちくぼんでいる。
「大丈夫?」
意味がわからず、首を傾げる。
「何がですか」
「……部屋、何ともない?」
その聞き方が妙に引っかかった。何ともないと答えると、彼女は周囲を気にして声を落とした。
「昨夜ね、101と201の人が死んだの」
一瞬、言葉の意味が入ってこなかった。
「死んだって……」
「殺された。ほぼ同じ時間。首と、目」
それ以上は聞きたくなかったが、水梨は止まらなかった。
「それでね、102の人が言ってた。夜の十一時ごろ、電話が鳴ったって。自分の部屋だけじゃない。あちこちから、一斉に」
俺の部屋には固定電話がある。前の住人の置き土産だ。使っていないが、線は生きている。
「何度も鳴って、それで……聞こえたんだって」
「何が」
「三文字」
彼女はそこで言葉を切った。俺が続きを促す前に、かすれた声で言う。
「内容は教えてくれなかった。ただ、それを聞いたあとに……」
水梨は言葉を飲み込み、俺の目を見た。
「だから、気をつけて。あんた、104でしょ」
その数字を言う時、なぜか少し間があった。
アパートに戻ると、空気が変だった。建物全体が、息を潜めているような静けさ。時計を見ると、十時五十八分。
嫌な予感がして、テレビをつけた。音がないと落ち着かない。だが、画面を見ていても内容が頭に入らない。
十一時ちょうど。
「プルルルル……」
電話が鳴った。
自分の部屋だけじゃない。壁越しに、廊下の奥から、上の階から、同じ音が重なって聞こえる。まるでアパートそのものが鳴っているようだった。
受話器を見る。取らなければならない理由はない。だが、取らなければならない気もした。
廊下でドアが開く音がした。覗き穴から見ると、水梨が103号室のドアを開け、廊下に出ている。手には受話器。コードが床を這っている。
俺は思わずドアを開けた。
「やめろ」
声が出た。彼女は一瞬こちらを見たが、もう受話器を耳に当てていた。
電話の音が止む。
次の瞬間、聞こえた。
三文字。
内容ははっきりしない。意味もわからない。ただ、音だけが、頭の奥に残った。
水梨はしばらく立ち尽くしていた。何も起きない。そう思った時、彼女がゆっくりと振り向いた。
顔が、なかった。
正確には、顔として認識できるものが、そこになかった。影のような歪みがあるだけで、目鼻の位置が定まらない。
彼女の口が動いた気がした。
次の瞬間、床に倒れた。
俺は何もできなかった。叫び声も出なかった。ただ、部屋に戻り、ドアを閉め、鍵をかけた。
電話はまだ鳴っている。
取らなければならない。取ってはいけない。どちらの考えも、同じ重さで頭を占めていた。
結局、受話器を取った。
「……」
最初は無音だった。
それから、低い声が聞こえた。
三文字。

それは、さっき水梨が聞いたものと同じだったのかもしれない。だが、確信は持てない。音だけが、直接、脳に触れてくる。
電話が切れた。
部屋の電気が、一斉に消えた。
「コンコン」
玄関を叩く音。
誰かが立っている気配がある。だが、覗き穴を見ても、何も映らない。
床に、紙が落ちていた。さっきまではなかったはずのメモだ。
拾い上げる。
「つぎは104」
自分の部屋の番号だ。
その瞬間、103号室の電話が鳴り始めた。誰もいないはずの部屋で。
同時に、俺の部屋の電話も鳴る。
スマホを掴む。圏外表示。
背後に、何かがいる。
振り向かなかった。振り向いたら終わると、なぜか確信していた。
窓を開け、外へ出た。着地の衝撃で足に痛みが走ったが、止まらなかった。
振り返らなかった。
それ以降、俺はそのアパートに戻っていない。住所を思い出そうとすると、途中で必ず抜け落ちる。
だが、夜十一時になると、今でも通知が届く。
発信元不明。
本文は、いつも三文字だけだ。
最初に聞いた音と、同じかどうかは、もうわからない。
ただ、読むたびに思う。
あれは、俺に向けた言葉ではなかったのかもしれない。
この文章を、今こうして書いている間も、机の横で、使っていないはずの電話が、静かに鳴っている。
[出典:964 名前:BEAR 投稿日:03/02/18 00:40]