俺の実家は、超がつくほどの田舎だ。
十世帯ほどしかない小さな村で、いわゆる限界集落と呼ばれる場所だ。
とはいえ、水道も電気も普通に通っているし、住人もごく普通の年寄りばかりだ。都会の人間が言うような、陰湿な人間関係もない。
ただひとつだけ、説明しづらい共通点があった。
村の年寄り全員が、同じ言葉を唱える。
宗派も名前も、俺は知らない。親も信者ではないし、俺自身も関わったことはない。ただ、子供の頃、祖母の真似をして適当に唱えたことがある。その瞬間、母親に叩きつけるような声で怒鳴られた。
二度と言うな。ふざけるな。ここでは口にするな。
理由は教えてくれなかった。
仏壇はあったが花は供えられず、葬式でも坊主は呼ばれなかった。ただ、年寄りたちは集まると、必ず同じ抑揚で、同じ速度で、同じ言葉を唱えていた。意味は分からない。分からないまま、それが日常だった。
中学に上がる頃、村の外の連中から、俺たちはひそひそ噂されるようになった。
「あそこの村、変だぞ」
理由は分かっていた。だから俺は、幼馴染とよく愚痴った。体格がよく、プロレスラーのアブドーラ・ザ・ブッチャーにそっくりな奴だ。
「俺らはやってねぇよな」
「やってねぇよ」
それで済ませていた。
高校に上がる頃には、逆に笑い話にした。年寄りが来たら壁を蹴って驚かせたとか、そんな程度の悪ふざけだ。どこかで俺たちは、この村には深入りしない方がいいと分かっていたのだと思う。
去年の春、市内の大型古本屋で一冊の小さな本を見つけた。古びた装丁の自費出版で、郷土史と書かれていた。神社や石碑、古文書、洞穴の由来まで丁寧にまとめられている。面白そうだと思い、買って帰った。
だが、読み進めて妙なことに気づいた。
俺の村だけ、記述が異様に少ない。
項目は二つ。ひとつは神社。もうひとつは、「村の奥に何かが祀られているらしいが、詳細不明」という一文だけだった。
子供の頃、村中を遊び回った俺でも、そんな場所は知らない。
気になって仕方がなくなり、そのまま村を歩き回った。だが、何も見つからない。沢沿いをうろついていると、農作業中の婆さんに声をかけられた。
何してる。
探し物。
何か無くしたか。
この奥に、何か祀られてる場所、知らないか。
そう言った瞬間、婆さんの顔が歪んだ。
知らない。そんなの聞いたことない。
いいから帰れ。
怒鳴るように言われ、俺は引き下がった。
帰り道、草刈りをしていた幼馴染の祖父を見かけた。彼なら知っているかもしれないと思い、話を振った。すると、少し間を置いて、場所を知っていると言った。
こんなところだと、口で説明された場所は、正直、誰にも見つからないと思える場所だった。
森に入り、草を掻き分けて進むと、足元の感触が変わった。柔らかい土から、硬い石へ。苔むした石段が現れた。
登り切ると、そこだけ空気が違った。神社の境内のように整えられた空間。中央に祠があり、その周囲を同じ大きさの石碑が囲んでいる。数は六つだったと思う。
古い。だが、放置されてはいない。
ここは駄目だと、理屈抜きで思った。
引き返そうとしたとき、祠の中を見てしまった。
顔があった。
目が合った。
次の瞬間、俺は走っていた。
石段を転げ落ちるように駆け下り、森を抜ける。背後から、確かに人の息遣いが聞こえた。振り返れなかった。
瞬きをするたび、自分の後ろ姿が浮かんだ。それが、少しずつ近づいてくる。
追いつかれる。
そう思うたび、頭が真っ白になった。
首元に、生温かい息を感じた。
そこからの記憶は曖昧だ。気づくと、俺は自分の家の布団の中にいた。
その後、何も起きていない。俺は今も生きている。
だが、あの日を境に、村の年寄りたちが唱える言葉を、耳が拒否するようになった。意味が分からないのに、聞いてはいけないと分かる。
後になって気づいた。
村では、昔から自殺者が多かった。
なぜ、あの場所は語られないのか。
なぜ、整備され続けているのか。
なぜ、祖父は俺に教えたのか。
その翌年、彼は亡くなった。
もう確かめる術はない。
ただ分かっているのは、俺は見てしまったということだ。
村に生まれた人間として、知らなくてよかったものを知ってしまった。
思い出したくない。
だが、思い出さずにはいられない。
あの祠。
石碑。
そして、あの顔。
それは今も、村の奥で、同じ言葉を待っている気がしている。
(了)
[出典:549:2011/11/28(月) 20:36:30.71 ID:g14n3bOJ0]