二年前のことだ。昼食をどうするか考えているうちに、急にモスバーガーが食べたくなった。
理由はない。ただ、あの緑の看板と、包み紙を開くときの湿った音が頭に浮かんだ瞬間、他の選択肢がすべて消えた。
自転車にまたがり、ペダルを踏むたび、タイヤがアスファルトの粒を踏み潰す感触が足裏に伝わる。梅雨に入る直前で、空は白く濁り、影が薄かった。横断歩道が見えた。信号は青だった。歩行者用の表示が、規則正しく瞬いていた。
間に合う。
そう思った瞬間、左から、重たい音が来た。
金属が擦れる音と、身体の奥に直接叩き込まれる圧。自転車ごと持ち上げられ、次の瞬間には地面が背中に張り付いた。息が一度、喉の奥で詰まる。音が遅れて聞こえ、誰かの叫び声とブレーキの悲鳴が混ざった。
左足が、妙な方向を向いていた。
折れるというより、壊れる、という感じだった。痛みは遅れて来た。圧倒的な力に触れられると、体はまず静かになるのだと、そのとき初めて知った。
市内の大きな病院に運ばれ、処置が終わったあと、私はベッドの上で天井を見ていた。白すぎるほど白い天井で、光が均一に広がっている。足は重く、遠く、布の向こう側にあるようだった。
病室は個室だった。新しい建物らしく、消毒液の匂いに混じって、プラスチックと金属の新しい匂いがした。ベッドの脇には、可動式の小さなモニターTVがあり、腕のように伸びて、顔の前まで動かせた。動かすたび、関節が小さく鳴った。
それが、少し楽しかった。
両親が駆け込んできて、怒られた。母の手が頭に当たったとき、叩かれたというより、位置を確かめられた、という感触だった。青信号だったのにと言い返し、理不尽だと思い、声を荒げた。警察が来て、質問をされ、知らない言葉が飛び交った。
初めての入院。非日常。足の痛みと、奇妙な高揚感が、体の中で混ざっていた。
夜、母は帰った。着替えを置き、カーテンを整え、背中に手を置いて「寝なさい」と言った。ドアが閉まる音が、思ったより大きく、長く響いた。
部屋が静かになると、音が浮き彫りになった。
廊下を通る足音、遠くのナースコール、換気の低い唸り。夕方から眠ったり起きたりを繰り返していた。腕の擦り傷が、シーツに触れるたび、じん、と熱を持った。
夜中だった。正確な時刻は分からない。ただ、目が覚めたとき、空気が一段、冷えていた。
視界の端に、人の形があった。
ベッドの隣。カーテンと点滴台の間。おかっぱ頭で、痩せた女の人が立っていた。背は高くない。私と同じくらいか、少し低い。大きなバラの花柄のパジャマを着ていた。色はくすんだ赤と緑で、布は体に沿わず、すとんと落ちていた。
誰、という言葉が頭の中で跳ねた。声は出なかった。入院患者だと思った。間違えて入ってきたのだと、無理に納得しようとした。
時計を見ようと、顔だけ横に向けた。モニターTVの黒い画面に、自分の顔が薄く映っていた。目の焦点が合わず、輪郭が滲んでいた。
顔を戻したとき、そこには誰もいなかった。
心臓が、遅れて速くなった。
見間違い。寝ぼけ。そう言い聞かせ、布団を引き上げ、目を閉じた。意識が沈み、また浮かび上がる。
次に目を開けたとき、はっきりと、そこにいた。
同じ場所。同じパジャマ。今度は、こちらを見ていた。じっと。怒っているようにも、困っているようにも見えた。眉と眉の間に、浅い影が落ちていた。
空気が重くなった。匂いがした。病院の消毒液とは違う、古い布の匂い。汗と、花の残り香が混じったような匂いが、鼻の奥に触れた。
全身の皮膚が、一斉に逆立つ。私は布団を頭からかぶり、手探りでナースコールを押した。ボタンは冷たく、指が震えて、なかなか押せなかった。
声は出なかった。ただ、喉の奥で、息が詰まる音だけがした。
スピーカーから名前を呼ばれたが、答えられなかった。時間が伸びていく感じがした。布団の中で、あの匂いが、まだ消えない気がした。
ドアが開く音。足音。布団の上から、光が差した。
看護師が顔を覗き込み、優しい声で話しかけてきた。布団から顔を出すと、もう、誰もいなかった。
私は泣きながら話した。二度、見たこと。場所。パジャマ。匂い。部屋を変えてほしいこと。看護師は、否定も肯定もせず、頷きながら聞いた。もう一人を呼び、しばらく部屋に残ってくれた。
その間、私はずっと、ベッド脇の空間を見ていた。
そこが空いているのかどうか、それだけを確認していた。
別の病室に移ってから、何も起きなかった。
夜は何度も目が覚めたが、そこには機械とカーテンしかなかった。退院し、日常に戻ると、あの出来事は、湿った布のように、記憶の底に畳まれていった。
ただ、癖だけが残った。
ベッドに横になると、無意識に、隣の空間を確認する。何もいなくても、そこが空いているかを確かめる。理由は分からない。ただ、そうしないと落ち着かなかった。
先週の土曜日、彼氏に迎えに来てもらい、ショッピングセンターへ行った。玄関から出てきた女性を見た瞬間、胸の奥が軽く鳴った。
以前、病院で世話になった看護師だった。
笑顔も声も変わらなかった。姉だと紹介され、私は二年前のお礼を言った。彼氏は偶然だと笑った。
その翌日、電話で聞いた話を、私は誰にも言っていない。
入院していた頃、私のいた病室の前の患者が、少し前に亡くなっていたこと。夜、家族が帰ったあと、誰もいないはずの個室で、何度もナースコールが押されていたこと。だが、部屋に入ると、いつも、ベッドの脇だけが妙に乱れていたこと。
誰が押していたのかは、分からない。
電話を切ったあと、私は自分の左足を見た。もう治っている。だが、雨の日になると、奥が鈍く冷える。
最近、気づいたことがある。
病院の匂いがする場所に行くと、私は必ず、ベッドの隣を見る。誰もいなくても、そこが空いているかどうか、確かめる。
可動式のモニターTVが、黒い画面のまま、そちらを向いていないかも。
眠りと目覚めの境目で、あの匂いがすることがある。
立っているのが誰なのか、分からない。
見ているのが、どちらなのかも。
それを考えると、足の奥が、少し冷える。
(了)
[出典:261: 本当にあった怖い名無し:2011/06/09(木) 13:32:03.76 ID:qO8E4Nqa0]