祖母は酒を飲まない人だった。
嫌いというほどでもないが、せいぜい冬の夜に梅酒を少し、寝る前に舐める程度で、酔うことはまずなかった。
だからなのか、祖母は酔っ払いが嫌いだった。
理由ははっきりしている。兄がそうだったからだ。
祖母の兄は、村でも有名な呑んべえだった。
普段は気の弱い、どちらかと言えば真面目な人間だったらしいが、酒が入ると変わる。声が大きくなり、嘘をつき、喧嘩腰になる。いわゆる絡み酒で、義姉は長年それに振り回され続けていた。
兄は四十を迎える前に死んだ。
周囲は口を揃えて言った。酒だろう、と。
けれど法事の帰り道、祖母はぽつりとこぼした。
「それだけじゃなかった気がするんよ」
祖母は、みえる人だった。
本人はそれを隠したがったが、私は子どもの頃から知っていた。夜道で立ち止まる理由、何もない空間を避ける歩き方、その全部を見て育った。
「兄さんな、死ぬ一年くらい前から、おかしくなったんよ」
兄は相変わらず酒を飲んでいた。
ただ、飲む場所が変わった。
家でも、人の家でもない。
田んぼだった。
刈り取りの終わった田の真ん中で、徳利も盃もないまま、兄は眠っていたという。
義姉が見つけた時、兄は満足そうに笑っていた。
それが一度ではなかった。
畑、用水路のそば、道端。
月に何度も、兄は屋外で酔いつぶれていた。
義姉は言った。
「もてなしてもろうた夢を見たち、言い張るんよ」
その年のお盆、祖母は久しぶりに兄に会った。
玄関に立つ兄を見た瞬間、祖母は言葉を失った。
頬は落ち、目の下は黒ずみ、顔つきがどこか獣じみていた。
そして、兄の背中に、黒いものがあった。
靄のようで、毛のようで、はっきりしない。
それは兄の頭から腰までを覆い、ぴたりと張りついていた。
祖母が瞬きをすると、それは消えた。
だが、近づいた瞬間、鼻を刺すような獣臭がした。
その夜、兄は飲みに出なかった。
食卓では終始静かで、祖母を見ては何か言いたげに口を開き、結局閉じた。
翌朝、兄は祖母を呼び止めた。
「好いた人ができた」
兄は小声で話した。
この近所に一人で住む未亡人だという。
仕事帰りに会い、家に通っている。
酒も、料理も、全部その人が出してくれる。
祖母は気づいた。
兄の話には、場所の名前が一切出てこない。
近所なのに、誰も知らない。
義姉も、子どもたちも、村も、存在しない。
「兄さん、どこで飲んじょるん」
そう聞くと、兄は笑った。
「田んぼの奥や」
その言い方が、妙に正確だった。
角を曲がる兄の背中に、また黒いものが寄り添った。
祖母はその靄が、兄を導くように、少し前へ伸びているのを見た。
それが最後だった。
秋祭りの前、兄は死んだ。
急だった。
通夜の夜、祖母は庭に出た。
座敷の外、縁側の先に、動くものがいた。
狸だった。
人を恐れない。
追い払おうと近づくと、口を開けた。
赤かった。
舌も、喉も、奥まで。
祖母はその口の中に、兄が酔って語っていた「座敷」を見た気がした。
灯りと酒の匂いと、笑い声。
狸は、通夜が終わるまで動かなかった。
――――――――
今、私は酒飲みと暮らしている。
夜中、酔いつぶれた夫を布団に押し込むたび、祖母の兄を思い出す。
そして、ふと考える。
兄は、化かされたのだろうか。
それとも、招かれたのだろうか。
田んぼで飲む理由を、私はまだ知らない。
[出典:怖い話&不思議な話の投稿掲示板/投稿者「凪 ◆gRc5iHyE」 2018/11/28]