これは、以前とある大型施設で夜間点検を担当していた人物から聞いた話だ。
彼はもうその仕事を辞めて久しい。待遇や人間関係に問題があったわけではない。ただ、ある一夜を境に、閉館後の屋内空間に入れなくなった。
その施設は、昼間は人と光と音で満たされる巨大な屋内構造物だった。天井は高く、通路は規則正しく区切られている。しかし閉館後になると性質が変わる。照明は最低限に落とされ、距離感が曖昧になる。通路は実際より長く感じられ、角は深く、壁と床の境界が溶けるように見える。
夜間点検の仕事は単純だ。決められたルートを巡回し、異常がないかを確認する。それだけの作業を、彼は何年も繰り返してきた。だからその夜も、特別な警戒はしていなかった。
その日は巡回を早めに終わらせるため、普段より速いペースで進んでいた。人の気配が完全に消えた空間では、自分の足音や衣擦れが妙に大きく響く。反響は一定せず、音の距離がつかめない。それもいつものことだと、彼は意識から外していた。
最初の違和感は、監視用の表示装置だった。本来は変化のない画面に、一瞬だけ動きが記録された。すぐに消えたため、誤作動だと判断した。施設では、機械のほうが人より信用できないこともある。
次に気づいたのは空気だった。空調で均一に保たれているはずの区画の一角だけ、生ぬるい温度が残っている。湿り気を帯びた空気が、そこだけに溜まっていた。理由は分からなかったが、異常と断定するほどではない。彼はチェックを進めた。
終盤、休憩用の小さなスペースに立ち寄ったとき、正面のガラス越しに誰かが立っているのが見えた。薄暗い照明の中で、白っぽい輪郭だけが浮かんでいる。非常時の来訪者か、別の点検員だと思い、彼は近づいた。
だが相手は動かない。呼びかけても反応がない。
距離が縮まるにつれ、それが人の形をしていないことが分かってきた。衣服と呼べるものは曖昧で、輪郭が微かに揺れている。顔の位置にあるはずの部分ははっきり見えない。それでも、こちらを見ているという感覚だけが確かにあった。
彼はその場を離れた。走ったつもりはなかったが、気づけば巡回ルートを外れていた。背後から、何かが追ってくる気配がある。音はしない。ただ、空気の重さだけが移動してくる。
通路の角を曲がった瞬間、それは前方にいた。
さきほどより近いはずなのに、距離が合わない。遠いまま、しかし逃げられない位置に立っている。足音を止めても、距離は変わらなかった。
振り返ると、背後にも同じ気配があった。数を数えようとしたが、正確な数が分からない。視界の端で、位置だけが増えていく。
逃げ場はなかった。
彼は床に崩れ落ち、視界が歪んだ。体に触れられた感覚はない。それなのに、姿勢を保てなかった。耳元で声がした。内容は思い出せない。ただ、「確認」という言葉だけが、異様にはっきり残っている。
次に意識を取り戻したとき、彼は施設の外にいた。夜明け前で、外壁が淡く照らされていた。救急対応が行われたが、検査結果は不可解だった。体調不良以外に目立った異常はなく、そのまま帰宅を促された。
翌日、再検査を受けると、前夜には確認されていなかった複数の損傷が見つかった。担当者は記録を何度も見直していたという。その記録には、前夜の対応時、年配の付き添いが同席していたと残されていた。しかし、彼に付き添いは存在しない。
その後、施設側から連絡が入った。夜間点検の記録に不備があり、該当時間帯の確認が完了していない区画があるという。彼はそれを聞いた瞬間、自分が点検していた順序を思い出せなくなっていることに気づいた。
それ以来、彼はその施設に戻っていない。
今でも夜の屋内空間に入ると、無意識に温度の偏りと視線の数を確かめてしまうという。
確認される側に回った感覚は、まだ終わっていない。
この話をここまで読んだあなたも、もう確認の手続きには含まれている。
(了)