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中編 奇妙な話・不思議な話・怪異譚 n+2026

回転する床 n+

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今でも、湿った羊毛と線香が混じり合ったようなあの独特の匂いを嗅ぐと、私の内臓はずりと重い位置まで下がり、喉の奥が引き攣るような感覚に襲われる。それは恐怖というよりも、もっと生理的で、拒絶に近い反応だった。

幼い頃の私は、生きている人間よりも死んだ者たちの方に好かれていたらしい。

そう言ったのは私の母だった。母は信心深いというよりは、土着の因習や迷信を生活の知恵として無邪気に信じ込んでいる種類の人間で、私が原因不明の高熱を出すたびに、心配するどころか、どこか誇らしげな顔を私に向けたものだ。
「あんたは筋が良いからねえ」
氷嚢を替える母の手は冷たく、その冷たさが私の火照った額に触れると、私は決まって誰かの骨に触れられたような錯覚を覚えた。
葬式の帰り、あるいは彼岸の墓参りの後、私は必ずと言っていいほど熱を出した。
それは風邪のような生易しいものではない。体の芯に鉛を流し込まれたように重く、関節の隙間という隙間に泥が詰まったような不快感が数日間続くのだ。
私が布団の上で、熱に浮かされながら天井の木目を数えていると、母は煎じた薬草の臭いがする湯を持ってきて、私の枕元に座る。
「ご先祖様があんたのことを可愛がってるんだよ。触りたくて仕方がないのさ。ありがたいことだねえ」
母の言葉は、熱に冒された私の脳髄に、呪いのように染み込んでいった。
可愛がられている。触られている。
その言葉を聞くたびに、私は自分の皮膚の上に、無数の透明な掌が這い回っているのを想像せずにはいられなかった。
それらは私の熱を貪り、私の生気を啜り、私を彼らのいる冷たく湿った場所へと引きずり込もうとしているのではないか。
幼心に抱いたその疑念は、次第に確信へと変わっていった。
私は、自分がこの世とあの世の境界線上に置かれた、不安定な供物であるかのように感じていたのだ。

私の部屋は、築五十年を超える古い日本家屋の二階にあった。

歩くたびに床板が軋み、障子の隙間からは常に微かな隙間風が入り込んでくる、そんな部屋だった。
夜になると、家全体が呼吸をしているかのように、柱や梁が音を立てる。
その音は、私には家そのものが何かの合図を送っているように聞こえた。
特に雨の日は酷かった。湿気を吸った畳は重く沈み込み、部屋全体が沼の底に沈んだかのような圧迫感に包まれる。
そんな夜、私は決まってあの夢を見るのだ。
それは夢というにはあまりにも鮮明で、現実というにはあまりにも理不尽な体験だった。
私は夢の中で、自分の部屋の布団に横たわっている。
視覚も聴覚も、触覚さえも現実のそれと何ら変わりはない。
古びた天井のシミ、掛け布団の重み、枕の硬さ、遠くで聞こえる雨音。
すべてが「今、ここにある現実」として認識されている。
しかし、唯一つの異常が、唐突に訪れる。
何の前触れもなく、私が寝ている床――畳一畳分の空間が、まるでシーソーのように回転を始めるのだ。
回転軸は私の体の中心、へそのあたりを横切るように走っているのではない。
体の縦方向、つまり頭の天辺から足の爪先にかけての一本の線が軸となり、床が左右に傾ぐのでもない。
もっと奇妙で、逃げ場のない回転だった。
頭の方から床が沈み込み、足の方が持ち上がる。あるいはその逆。
いや、正確には、床板そのものが一枚の板ガムのように、中心軸を持って「裏返ろう」とするのだ。
コイントスで弾かれた硬貨のように、私が乗っている世界そのものが、裏側の世界へと回転を始める。
ゴゴゴゴ、と低い地鳴りのような音が鼓膜を震わせる。
それは畳と床板が擦れる音であり、同時に、世界の蝶番が錆びついた悲鳴を上げている音でもあった。

最初のうちは、その回転は緩やかだった。

頭がゆっくりと下がり、足が持ち上がる。
血液が頭に上り、視界が赤く充血していく感覚。
重力が狂い、内臓が喉元までせり上がってくるような嘔吐感。
私は必死に布団にしがみつくが、布団ごと床に張り付いているため、落下することはない。
ただ、世界ごと一緒に回転していくのだ。
恐怖の正体は、落下そのものではなかった。
回転の先にあるもの、つまり「床の裏側」に何があるのかという、根源的な予感だった。
表の世界がこれほど鮮明に見えているのなら、裏の世界もまた、同じ解像度で存在しているはずだ。
だが、そこは光の届かない場所だ。
湿った土の匂い、縁の下の闇、這い回る虫たち、そして母が言う「ご先祖様」たちが蠢く場所。
私は本能的に悟っていた。
回転しきってしまったら、二度と戻っては来られない。
私は回転が九十度を超え、体が垂直に逆さまになりかけたところで、決まって絶叫しながら目を覚ますのだった。
「はっ、ううっ……!」
跳ね起きると、そこはいつもの部屋だ。
心臓は早鐘を打ち、全身は冷や汗でびっしょりと濡れている。
畳に手をついて感触を確かめる。
硬く、動かない、水平な床。
安堵とともに、強烈な残尿感に似た不快感が残る。
また、見られていた。また、試されていた。
天井のシミが、心なしか人の顔のように歪んで見えた。
私は電気を点け、朝が来るまで膝を抱えて過ごすことが増えていった。

その夢は、執拗に繰り返された。

一週間に一度、あるいは三日に一度。
私の体調が崩れ、熱が出る周期と同期するように、夢の頻度も上がっていった。
高熱にうなされながら見るその夢は、一層のリアリティを伴っていた。
回転のスピードも、回を追うごとに速くなっていた。
以前はゆっくりと沈み込んでいた床が、ある時はガクンと急降下するように傾く。
ある時は、油の切れた機械のようにギギギと音を立てて、小刻みに震えながら回る。
私は毎回、必死の抵抗を試みた。
夢の中で「これは夢だ」と気付くことはできる。明晰夢というやつだ。
だが、体の自由は利かない。金縛りのように手足は重く、叫ぼうとしても声は喉に張り付いて出てこない。
できることと言えば、精神を極限まで張り詰め、意志の力で強制的に覚醒を促すことだけだった。
(起きろ、起きろ、起きろ!)
脳内で叫び続け、まぶたの裏を引き剥がすようにして現実に帰還する。
目覚めた時の疲労感は凄まじかった。
一晩中、重い石臼を挽かされていたかのような気だるさが体にまとわりつく。
学校に行っても授業には身が入らず、体育の時間に見学をしていると、またあの熱がぶり返してくる。
悪循環だった。
霊的な感応と、この悪夢は、私の心身を確実に削り取っていった。
母に相談しても無駄だった。
「お迎えが近いのかねえ」などと、不吉なことを嬉しそうに呟くだけだ。
私は孤独だった。
この恐怖を共有できる人間は、この世のどこにもいなかった。

小学校も高学年に差し掛かった頃、私の内面で何かが変化し始めた。

それは諦めにも似ていたし、一種の麻痺とも言えた。
連日の悪夢と発熱によって、恐怖を感じる神経そのものが摩耗してしまったのかもしれない。
ある夜、私はいつものように回転する床の上にいた。
頭が下がり、足が上がる。
視界の隅で、勉強机や本棚が逆さまになっていく。
いつもの恐怖。いつもの吐き気。
だが、その時の私は、ふと妙なことを考えたのだ。
――これ、最後まで回ったらどうなるんだろう?
それは、高所の柵から身を乗り出した時にふと感じる、「飛び降りたらどうなるか」という魔の誘惑に似ていた。
毎日毎日、中途半端に回転しては、汗だくで目覚める。
その繰り返しに飽き飽きしていたのかもしれない。
あるいは、母の言う「ご先祖様」とやらへの、歪んだ反抗心だったのかもしれない。
逃げるから追われるのだ。
いっそ、こっちから飛び込んでやれば、向こうが驚いて逃げるのではないか。
そんな子供じみた、しかし切実な好奇心が、恐怖の膜を破って芽生え始めた。
その夜は、結局恐怖に負けて目を覚ましてしまった。
だが、目覚めた後の感覚が違っていた。
いつもの安堵感ではなく、「惜しいことをした」という奇妙な悔しさが残ったのだ。
私は暗闇の中で、じっとりと濡れた掌を見つめながら決意した。
次は、逃げない。
次は、裏側を見てやる。

決意はしたものの、実践は容易ではなかった。

夢の中での私は、現実の私の決意を忘れていることが多かったからだ。
夢というものは、記憶の連続性を断ち切る性質がある。
回転が始まると、条件反射的に恐怖が湧き上がり、理性が働き出す前に「目覚めよう」ともがいてしまう。
何度も失敗した。
回転が始まり、七十度、八十度……垂直に近づくにつれて、生存本能が警鐘を鳴らす。
(落ちる! 戻れなくなる!)
その声に従ってしまい、ハッと目覚める。
目覚めるたびに、私は舌打ちをした。
「ちくしょう、また逃げちまった」
自分を責めた。
なぜ耐えられないのか。なぜあの一線を越えられないのか。
私は寝る前に、天井に向かって呟くようになった。
「次は絶対に行くからな。待ってろよ」
それは誰に対する宣言だったのか。
自分自身にか、それとも床下に潜む何者かにか。
その儀式を繰り返すうちに、私の中で恐怖心は、好奇心と義務感によって完全に塗り替えられていった。
早くあの夢を見たい。
早く回転したい。
異常な渇望が私を支配し始めていた。

そして、その夜が来た。

雨の降る、湿度の高い夜だった。
布団に入ると、すぐに意識が沈んでいった。
深い、粘度のある眠りだった。
ふと気づくと、私は部屋に寝ている。
夢だ、と即座にわかった。
部屋の空気が、いつもより青白く、粒子が荒いように感じられたからだ。
来る。
私は身構えた。
直後、ゴゴゴゴ……というお馴染みの音が響き渡った。
床板が振動し、畳の目の隙間から冷気が噴き出してくる。
始まった。
私の体ごと、床がゆっくりと頭の方へ沈み込んでいく。
重力のベクトルがずれ始める。
いつもの恐怖が、胸の奥からせり上がってくる。
心臓が早鐘を打ち、呼吸が浅くなる。
(起きろ! 逃げろ!)
本能が叫ぶ。
だが、この夜の私は違っていた。
現実での執拗な自己暗示が、夢の中の意識に楔のように打ち込まれていたのだ。
(いや、待て)
私は心の中で叫び返した。
(これが、あの夢だ。俺は今日、行くんだ)
私は歯を食いしばり、両手で固く布団の縁を握りしめた。
指の関節が白くなるほど強く。
爪が布を突き破りそうなほど強く。
私は全身の筋肉を硬直させ、逃げ出そうとする魂を肉体に縫い止めた。

回転は進む。

三十度。四十五度。六十度。
部屋の風景が斜めになり、やがて直角に近づく。
勉強机が壁に張り付いた虫のように見える。
天井の照明が、真横から私を照らす。
血液が頭に充血し、こめかみの血管がドクドクと脈打つ音が聞こえる。
ここが限界点だ。いつもなら、ここで叫んで目覚める。
恐怖は最高潮に達していた。
背中の裏側、畳一枚を隔てたすぐ向こう側に、圧倒的な「気配」が渦巻いているのがわかる。
何千、何万という冷たい視線。
腐った土の臭い。
蠢くものたちの摩擦音。
それらが、薄い板一枚向こうで待ち構えている。
(行け。行け。行け!)
私は恐怖を怒りに変換し、心の中で絶叫した。
回転が九十度を超えた。
体が逆さまになる。
私の視界から、見慣れた部屋の風景が滑り落ちていく。
代わりに、下から――いや、かつての天井の方角から、床の裏側が競り上がってくる。
重力が反転する。
私は落ちるのではない。
裏側の世界へと、すくい上げられるのだ。
百二十度。百五十度。
あと少し。
あと少しで、完全に裏返る。
私は目を見開いたまま、その瞬間を待った。
世界が暗転する、その境界線を。
ギギ、ギギギギギ……パタン。
重い扉が閉じるような音と共に、回転が百八十度に達した。

そこは、完全なる闇だった。

光の一粒子さえも存在しない、粘度の高い黒インクに全身を浸されたような世界だった。
私は息を止めていた。
落ちる、という感覚はなかった。
重力が消失し、私はただ宙に浮いているのか、あるいは何かに押し潰されているのか判別がつかない状態だった。
ただ、感覚だけが鋭敏に研ぎ澄まされていた。
まず鼻を突いたのは、あの匂いだ。
線香の煙を何十年も吸い込んだ古畳の匂いと、雨に濡れた獣の毛皮のような湿気た臭い。
そして、濃厚な土の芳香。
それらが混然となって、私の肺を満たした。
不快ではなかった。
不思議なことに、それは懐かしさに似た安堵感を私にもたらした。
まるで、長い旅の果てに、ようやく自分の布団に戻ってきた時のような。
私は恐る恐る手を伸ばしてみた。
指先が何かに触れる。
冷たく、ざらついた感触。
それは土壁のようでもあり、風化した骨の表面のようでもあった。
私は理解した。
ここは広い空間ではない。
私の体の輪郭に沿って、ぴたりと誂えられたような、極めて狭い空洞だ。
私は閉じ込められている。
いや、違う。
「納められている」のだ。

音はなかった。

風の音も、家の軋みも、雨音さえも聞こえない。
だが、静寂の中に、無数の「気配」が満ちていた。
それは私の肌に直接触れ、撫で回すような圧迫感として知覚された。
(よく来たねえ)
(やっと来たねえ)
声として聞こえるわけではない。
脳の皺の奥に、直接スポイトでインクを垂らされるように、意思が染み込んでくる。
母が言っていた「ご先祖様」たちだろうか。
彼らは私を害そうとはしていなかった。
ただ、ひたすらに愛でていた。
何百という冷たい手が、私の手足、腹、顔をペタペタと隙間なく覆い尽くしていく。
熱い。
彼らの手は氷のように冷たいはずなのに、触れられた場所から、私の体温が彼らの方へと流出し、代わりに彼らの持つ「静寂」が私の体内へと流れ込んでくる。
熱交換が行われている。
私の持っていた「生」の熱と、彼らの持つ「死」の冷気が、急速に混ざり合い、均されていく。
恐怖はなかった。
あるのは、抗いようのない睡魔のような、甘美な諦念だけだった。
私は今まで、必死に抵抗していたのだ。
この心地よい闇から逃れようと、高熱を出して拒絶していたのだ。
だが、今は思う。
なぜあんなに必死だったのだろう?
ここはこんなにも静かで、痛みも苦しみもないのに。
私は闇の中で、ゆっくりと瞼を閉じた――いや、元々見えていなかったのだから、意識の目を閉じたと言うべきか。
同化していく。
私が彼らに溶け、彼らが私になる。
回転した床の裏側。そこは、世界の「澱(おり)」が溜まる場所ではなく、私という存在が本来あるべき「器」だったのだ。

「……」

目を開けると、朝だった。

雀の鳴き声が聞こえる。
レースのカーテン越しに、白い陽光が部屋に差し込んでいる。
私は自分の布団の中にいた。
汗一つかいていなかった。
いつものような、泥のような疲労感もない。
むしろ、生まれ変わったかのように身体が軽かった。
私は起き上がり、両手を見つめた。
血管が透けて見える白い肌。
以前と何も変わらない。
だが、決定的に何かが違っていた。
胸の奥にあった、常に焦げ付くような不安の種が、きれいに消失している。
代わりに、冷やりとした重石のようなものが、丹田のあたりにどっしりと居座っていた。
それは不快な異物ではなく、重心を安定させるためのバラスト(重り)のように頼もしかった。
私は深呼吸をした。
部屋の空気は乾燥して爽やかだったが、私の鼻腔の奥には、あの夢の中で嗅いだ、湿った土と線香の匂いが微かに、しかし確かに残留していた。
それはもう、嫌な匂いではなかった。
私の体臭の一部になったかのように、馴染んでいた。

階下に降りると、母が台所で朝食を作っていた。

味噌汁の匂いがする。
いつもの日常だ。
「おはよう」
私が声をかけると、母は包丁を止めて振り返った。
その目が、私をじっと捉えた。
数秒の沈黙。
母は私の顔を穴が開くほど見つめ、それからふわりと、今までに見せたことのない柔らかな笑みを浮かべた。
「……顔色が良くなったねえ」
「そうかな」
「ああ、憑き物が落ちたみたいだ。それとも、ようやく馴染んだのかね」
母はそれ以上何も言わず、またトントンと野菜を刻み始めた。
その背中は、以前のような「取り憑かれた子を持つ母」の気負いが消え、どこか安堵しているように見えた。
私は食卓に座り、出された白米を食べた。
味はしなかった。
いや、味覚はあるのだが、それが「遠い」のだ。
ガラス一枚隔てた向こう側で食事をしているような、奇妙な感覚。
だが、不満はなかった。
空腹は満たされ、身体は機能している。それで十分だった。

それ以来、私は一度も熱を出していない。

あれほど頻繁だった葬式や墓参りの後の体調不良は、嘘のように止まった。
墓地に行くと、むしろ体調が良くなるほどだった。
立ち並ぶ墓石を見ると、隣人の家を訪ねたような親しみを覚える。
線香の煙を吸い込むと、肺が浄化される気がする。
そして、あの夢も見なくなった。
床が回転する夢。
当然だ。
もう回転する必要はないのだから。

大人になった今、私はあの夜のことを冷静に分析することができる。

あの夢は、単なる悪夢ではなかった。
あれは「儀式」だったのだ。
私は幼い頃、生と死の境界線上で不安定に揺れていた。
私の魂のサイズが、肉体という器にうまくフィットしていなかったのかもしれない。
だから、隙間から余計なものが入り込み、熱を出していた。
あの回転する床は、調整のための機構だった。
私は何度も拒絶し、逃げ出していたが、あの夜、ついに好奇心(あるいは誘導された衝動)によって、最後まで儀式を完遂させてしまった。
百八十度の回転。
それは「裏側を見る」ことではない。
「裏と表を入れ替える」ことだったのだ。

鏡を見るたびに、私は思う。

今、鏡に映っているこの男は、本当に以前の「私」なのだろうか?
記憶はある。感情もある。
だが、その質感が違う。
以前の私は、もっと熱っぽく、怯え、生にしがみついていた。
今の私は、限りなく冷たく、静かで、揺らぐことがない。
あの夜、回転しきった暗闇の中で、私は誰かとすれ違わなかったか?
あるいは、あの暗闇こそが私の本来の居場所で、今まで「現実」だと思っていたこの世界の方が、長い長い夢だったのではないか?
柩(ひつぎ)の蓋が閉じるように、床は回転した。
私は閉じ込められたのではない。
あちら側から、こちら側へと「埋葬」されたのだ。
死者が土の下で安らぎを得るように、私はこの「生」という名の世界で、死人のような安らぎを得て暮らしている。

ふと、足元の床がきしむ音がする。

私は微笑む。
もう怖くはない。
床の下には、かつての私が怯えていた「恐怖」など存在しないことを知っているからだ。
そこにあるのは、私の片割れだ。
あの夜、回転する床の向こう側に置いてきた、熱を出して泣いていた「私」という抜け殻。
それが今も、床の裏側で、逆さまになったまま眠っているのかもしれない。
いつかまた、床が回転する時が来るだろう。
それが私の寿命が尽きる時だ。
その時、私は再び百八十度回転し、あの懐かしい土の匂いのする暗闇へと戻っていく。
「ただいま」と言うために。
それまでは、この眩しくて騒がしい「現世」という名の夢を、せいぜい楽しむとしよう。

私は冷めたお茶を一口啜り、窓の外の青空を見上げた。
抜けるような青さが、まるで作り物の書き割りのように見えた。

(了)

[出典:106 :本当にあった怖い名無し:2025/04/22(火) 00:21:18.71ID:lfMFPOkI0]

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