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短編 奇妙な話・不思議な話・怪異譚 n+2025

二時三十五分の通話 n+

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今でもあの夜の話を耳にすると、周囲がそっと息を潜めるらしい。

語ったのは、四年前に親友を亡くしたAの友人で、彼は「聞いたまま」を落ち着いた声で繰り返すだけだった。

当時、Aには大学で知り合った○恵という恋人がいた。ふたりは飾り気なく明るく、周囲をいつも巻き込むような空気を持っていたそうだ。仲間内でも、Aと○恵、そして語り手の友人たち二人が組になり、四人であちこちを歩くのが当たり前のように続いていたという。

その季節は、ちょうど今と同じく空気が針のように冷え、夜の道路が乾いた白色を帯びる時期だった。Aは例によって深夜のバイトを入れていた。某レンタルビデオ店──彼はそこで週末だけ長時間働き、帰り道はいつも決まって身体を震わせながら自転車をこいでいたという。

あの日、帰宅したのは丑三つ時頃。肩に染み付いた埃や紙の匂いが、そのまま布団に吸われていったらしい。靴も脱ぎ方が雑で、そのまま倒れ込むように眠ったと聞く。

間もなくして、枕元の携帯が震えた。着信音が薄暗い部屋に浮かぶと、Aは思わず眉を寄せたらしい。画面には○恵の名前。こんな時間に、と舌打ち混じりで応答すると、耳元に返ってきた声がいつもと違っていたという。

『まだ起きてたんだ……ごめんね』

その言い方が妙に湿っていて、背後にざらつく雑音が混ざっていた。『ジー……』『シャー……』と、電波の悪いトンネルで拾うような、あの途切れ方。

「どこにいるんだよ」と訊くと、○恵は少し間を置いて答えた。

『田舎から友達が来ててね……深夜のドライブに連れてかれてるの』

思い返せば、以前それを話していたとAも思い当たったらしい。

Aは眠気で頭が鈍く、ろくに相手もできず「帰る時は気を付けろよ」と軽く言って切ろうとした。だが、○恵はなぜか続けようとした。言葉が途切れ途切れで、普段より饒舌で、方向の定まらない会話が続いた。

『就職するなら、ここ……いいと思うよ……』
『○○くん、食べ過ぎるとお腹痛くなっちゃうから……ね』

その内容はどうでもよく、一方的だったという。Aが訝り「おまえ、どうかした?」と訊けば、返ってきたのは押し殺すような呼吸だった。

『……ごめんね……ほんと、ごめん……なんでもないの……』

泣いているような声で、何度も同じ言葉ばかりを繰り返したそうだ。Aは胸騒ぎを覚えたものの、強烈な眠気に負けて「明日会うから」とだけ言って通話を切った。

その時刻が、ちょうど午前二時半前後だったという。

翌朝の早い時間、Aの携帯が震えた。相手は○恵の母親。

受話口の向こうはすぐに嗚咽で濁り、Aは言葉をはっきり聞き取れなかったらしい。

要点をようやく繋ぐと──
○恵の乗った車が、首○高速湾岸線の分離帯に激突したというのだ。四人全員が車外に投げ出され、即死に近い状態。○恵だけは搬送されたが、途中で息が途切れた。

病院に着いた時刻は“午前二時三十五分”。
Aが昨晩○恵と話していた、その最中だ。

Aはそのまま昼過ぎに○恵の実家へ向かい、玄関に踏み込んだ瞬間、母親が崩れ落ちるように抱きついてきたという。涙で顔が濡れ、息がうまく吸えないような状態で、ひたすら「ごめんね」を繰り返した。

Aは、その言葉に昨晩の通話を不意に思い出した。あの、泣きながら繰り返した “ごめんね” の重なり方。あれがまるで、母親の口真似のように響いたと彼は言っていた。

やがて母親は、破損した携帯をAに差し出した。ストラップが右手に固く絡みついたまま見つかったらしく、病院で外されたのだという。

Aは搬送時間を聞き、胸の中がざわめいたらしい。“二時三十五分”──通話中だったのは、まさにその頃。説明すると、母親と共に通話履歴を確認することになった。

壊れた画面の向こうで、履歴は確かに動いていた。二時三十五分を過ぎても──通話中のまま、数分先まで記録されていた。

その事実を前に、誰も何も言えなかったという。

語り手によれば、Aはその後しばらく誰とも会おうとせず、仕事も休みがちになった。だがある晩、ふと語り手を呼び出し、ぽつりとこぼしたらしい。

「……あのとき切らなきゃよかったって、ずっと思ってるんだ」

それは後悔というより、別の何かに怯えるような声音だった。
Aは続けて、小さな声でこう言ったという。

「電話、切る直前にな……あっちで誰かが、運転席の下をずっと叩いてた音がしてたんだよ。“ゴン……ゴン……”って。○恵の声が震えてた理由、あれだったんじゃないかって……」

語り手はそれを聞いて背中が冷えたものの、慰める言葉が見つからなかった。

ただ、ここからが語り手の言葉で一番印象に残っている部分だ。

Aは、しばらく沈黙した後、不意に語り手を見て言ったという。

「……あの時な。通話中、向こうの声が急に澄んだ瞬間があったんだ。雑音が全部消えて“あ、聞こえる”って思った。その時、○恵の声じゃなかったんだ」

語り手は「どういうことだ」と問うた。

Aは、少し迷うように息を吸い、続けたらしい。

「……“もうすぐ着くよ”って……誰かが言ったんだ。俺に向かってじゃなくて、○恵に向かって。あの声、俺……今でも時々、夢で聞くんだよ。電話越しの向こう側じゃなくてさ……俺の背中の方から」

語り手はそこで話を止めた。
彼自身、それ以上は聞くのが怖かったのだと打ち明けていた。

そして最後に、こう付け加えたらしい。

──Aは今でも、あの夜の着信音が鳴ると、必ず振り返るという。
──だが着信は、もう何年も前から一度も鳴っていないのだ。

[出典:412 :カメラマン:02/11/20 16:18]

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